どうせ「そんなのは無理です」と泣きを入れてくると思ったが、なんとその2つの条件は通った。そして初代の探偵局員は、嘉門達夫さん、槍魔栗三助さん(現在の生瀬勝久さん)など吉本芸人以外のキャストで始まった。
「最初のうちは全然おもろないですよ。ガチでやってるから当然『見つかりませんでした』ってオチもある。ヤラセになれてる視聴者からしたら『なんだ見つからないのか!!』って腹も立つ。それが如実に視聴率に響きました」
1年はとにかくディレクターと一緒に悩んで考えて、試行錯誤をし続けた。
50本150ネタを作ったところで、なんとなく面白く番組を撮る方法がわかってきた。そしてその頃には、そこそこの人気番組になっていた。
「人気番組になると大手プロダクションがタレントを送り込んできます。約束はうやむやになり芸人さんが探偵として入ってきて、正直やる気なくなってしまいました。まあ、最初からこうなるというのはわかってたことなんだけどね(笑)」
腑に落ちないところもあったが、「探偵ナイトスクープ」に出演するようになって“越前屋俵太”という名前にメジャー感が出たのは確かだった。
当時、「街行く一般の人をつかまえて面白く見せる」というのは越前屋さんにしかできない芸当で、さまざまな番組で引っ張りだこになった。若者中心に人気は上がり、大学の文化祭に呼ばれる本数もトップクラスになった。
番組の人気は続いたが、番組開始から7年経った1995年、越前屋さんは「探偵ナイトスクープ」を辞めることにした。
「視聴率取れたから番組としてはもういいわけです。営業も取れるし、制作陣は守りに入ります。そんなぬるま湯に僕がそこにいる意味はない。辞めた後のことは何にも決まってなかったけど、ここにいてはダメだなって思いました」
「探偵ナイトスクープ」は自分が頑張って手に入れたキャリアだ。でもそこにしがみついてはダメだと思う。しかし簡単に捨てられる物ではない。とても悩んだ。
自分にとっていちばん大切なもの
辞めるきっかけになった出来事は1995年の1月17日に起きた、阪神・淡路大震災だった。
「あの時、神戸の街は崩壊してなくなったんですよね。友達も死にました」
テレビに映るがれきを見て、もちろんかわいそうだと思った。しかし、それ以上に人のエネルギーを感じた。
「崩壊した街の人たちががれきを手でかきわけながら、竈(かまど)などを作って生活している様子が映し出されているのを見て『すべてをなくしたところから立ち上がる人々のエネルギーってなんてすごいんだろう』って思いました。それは、当時の自分にいちばん足りないものでした」
自分の中にも震災を起こさないといけない。
自分にとっていちばん大切なものはなんだろう? それは7年かけて作ってきた「探偵ナイトスクープ」という番組だった。
そして越前屋さんは地震から2カ月後の、1995年の3月に番組を辞めた。
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