駅弁「峠の釜めし」に紙の容器が登場したワケ ファンに衝撃「陶器が消える?」は誤解

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横川駅に隣接したおぎのや本店(撮影:吉永陽一)

陶器であるがゆえに環境への影響は少ないと思われるが、毎日大量の「峠の釜めし」の容器が不要となっているのも、また事実だ。荻野屋によると、同社の本店など店内で食べられ、発生した釜については、殺菌消毒のうえ、再利用されているという。飲食店の食器と同じ扱いだ。駅など、店以外の場所で食べられたものについては、できるだけ回収したうえ、窯元に戻して粉砕されたり、道路舗装の材料として再利用されているとのこと。

客が持ち帰った釜は、蓋も陶器であるがゆえ、ご飯を炊くときに使える。上手にやれば、少量でもふっくらと美味しく炊きあがるので、私もチャレンジしたことがある。ほかには、植木鉢として使われたり、小物入れにしているという向きもあるようだ。よい旅の記念になったことだろう。

「駅弁」全盛期は昭和50年代まで?

1997年の横川―軽井沢間廃止まで、横川駅では補助機関車の連結・切り離し作業が行われていた(写真:長井利尚 / PIXTA)

「峠の釜めし」が誕生したのは1958年のこと。高度経済成長期を迎えて鉄道旅行者がビジネス、観光を問わずに劇的に増加しはじめ、駅弁の需要も大きく増えた時期に当たる。荻野屋の本店が駅前にある信越本線の横川駅は、碓氷峠の急勾配を越える際、列車に補助機関車を連結、切り離しをするため、特急から普通まですべての列車が数分間停車していた。それが1997年の横川―軽井沢間の廃止まで続いている。駅弁の販売地としては好条件があり、「峠の釜めし」を名物に押し上げた一因ともなったのだ。

しかし、駅で販売される駅弁そのもので見れば、昭和50年代ぐらいまでが"全盛期"であっただろう。よく語られる販売が衰退した原因としては、「窓が開かない列車」の増加や、停車時間そのものの短縮、列車の高速化で所要時間が短くなり車中で食事する必要がなくなったことなどがある。平成に入る頃には、駅弁調製業者の駅弁からの撤退や廃業が相次ぐようになってしまった。

これは列車の食堂車と同じような傾向であったのだが、ほかにはやはりコンビニエンスストアなど、手軽に安価な食事が入手できる店舗の増加や、各種ファストフード店など外食産業の飛躍的な発展も駅弁衰退の背景としてあるだろう。確かに、国鉄時代の鉄道旅行における食事は、駅弁と食堂車のほかには、大都市圏でもないかぎり、駅の立ち食い蕎麦店や構内の食堂、駅前の個人経営の食堂程度しか手段がなかった。

次ページでは、なぜ駅弁は生き残れたのか?
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