「アップル」はいかにして日本に上陸したのか マンガ、ジョブズと日本人エンジニアの遭遇

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新本社であるApple ParkのSteve Jobs Theaterの外観(写真:Apple)  
『林檎の木の下で』が刊行されたのは1996年春だった。すでに20年以上が経過し、アップルはスティーブ・ジョブズというリーダーを失った。今回、『林檎の樹の下で 上 禁断の果実上陸編』と『林檎の樹の下で 下 日本への帰化編』の形で2回目の復刊となった。今回の復刊発案人は実業家の堀江貴文氏。堀江氏を「IT業界に入ってもいいかな」とバイト時代に初めて思わせてくれた本だという。著者の斎藤由多加氏が『スティーブス』の作者である、うめ先生のマンガとともに、日本人とジョブズの最初の出会いを描く。

サンフランシスコ 1977年4月

1977年4月16日、サンフランシスコ市内ダウンタウンにあるシビックセンターのオーディトリアムは、あふれんばかりの来場者でごった返していた。ここでは「第1回ウェストコースト・コンピュータ・フェア」というコンピュータのショーが開催されている。ショーといっても会場内は、大企業らが出展する、一般的なトレードショーとは一風異なる雰囲気をたずさえていた。

Tシャツ姿やひげ面の者、長髪を束ねた者、赤ん坊を連れた者、実にさまざまないでたちの人間であふれている。ここに1人の日本人の姿があった。眼鏡をかけた背広姿の小柄な男は、東京でハイテク関連の会社を経営するエンジニアであった。そもそもの訪米の目的は市内で開催される学術会議に参加することであり、このショーに足を延ばしたのはちょっとした好奇心からである。ここのところ、米国ではにわかにマイコンブームに火がつき始めていた。

マイコン(マイクロコンピュータ)はまだ趣味のための商品にすぎなかったが、昨年に米国東海岸のニュージャージー州アトランティックシティで世界初のマイコンショーが開かれてからというもの、業界はにわかに活気づいていた。今回のフェアは、その西海岸版ともいうべきものだ。

シリコンバレーのおひざ元であるサンフランシスコでの開催であることも手伝って、今回はさらに話題を集めていた。出展されているもののほとんどは、一般にはほとんど認知されていない会社……つまり、マニアがこのショーのために興したような会社……による、いわば手作りのマイコン製品ばかりだった。配られているパンフレットやビラもほとんどが手描きか、せいぜいタイプ打ちされた程度である。

もちろん中にはMITS社やIMSAI社、あるいはオハイオ・サイエンティフィック(Ohio Scientific)社といった、マニアの間では名の知れた会社も顔を出している。ことに、雑誌の通信販売で売り出したマイコンキット「アルテア(Altair)」がヒットしたおかげでブームの火付け役となっているMITS社は、少なくとも来場者の間ではかなり有名な会社であった。だが、それ以外のほとんど……にわか作りのブースに、むき出しの製品を展示している会社……に黒山の人だかりができている景観は、ショーというよりもむしろ学園祭のようである。

会場を一巡し、出入口近くのブースにできている人だかりで男は足を止めた。大きくとられたブースに50インチほどのTVプロジェクターが置かれ、そこでカラーのブロック崩しゲームが動いている。人だかりの真ん中には、パドルを握ってブロック崩しに熱中する客が陣取っているようだ。横に置かれた本体らしき物は、キーボードと一体となった小さなベージュのプラスチックケースである。

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