もし石橋湛山が首相を長く続けていたならば 日経新聞の名物記者が湛山を振り返る
岸は、戦前から商工省官僚として、満州国経営など日本の戦時統制経済に辣腕を振るう「革新官僚」であり、東条英機内閣で商工大臣を務める。戦後は、戦犯容疑で逮捕されるも不起訴・公職追放される。
石橋内閣で、外務大臣に処遇された岸信介については、秘話がある。石橋の提出した閣僚名簿について、明らかに昭和天皇と思われる方が「自分はこの名簿に対して只一つ尋ねたいことがある。彼は先般の戦争に於いて責任がある。その重大さは東条(英機)以上であると自分は思う」と語ったという(石橋湛山から岸信介に宛てた私信より。1960年4月20日)。石橋は天皇に「百方辞を尽くして了解を」求めたという。
なぜ、そうまでして岸を外相に起用したのか。後年、この間の事情について、湛山は「ともかく岸派というものは無視できなかった」と語っている。
1960年5月に、岸内閣は安保条約を単独で可決し、安保反対運動は広がり、国会は空転、6月15日にはデモ隊と警官隊が衝突、樺美智子がデモの渦中で死亡、社会混乱の中で、19日、安保条約は自然成立する。日米安保条約の発効を見届け、岸は退陣する。
国民の圧倒的な人気に支えられた時代の寵児
岸と比べると、湛山は対照的だ。戦後になってジャーナリストから政界に飛び込んだ湛山は、まさに、国民の圧倒的な人気に支えられた時代の寵児でもあった。
前述のように、その石橋は病に倒れ、あっけなく辞任する。医師から2カ月の休養を求められると「首相の国会欠席は公約たる国会運営の正常化に背く」として辞職したのである。
このあまりにもあっけない辞任の裏には、かつて満州事変の直前に、浜口雄幸首相の国会長期欠席を論難して、「言行一致し得ぬ場合にはその職を去るべし」という湛山が浜口に対して吐いた言葉を、自らの政治的出処進退として実践したものだった。政治家というよりは、ジャーナリストとしての筋の通し方が、石橋の辞任の原点にあったのである。
石橋の辞任に対しては、憲政の常道をまっとうする道として、最大級の評価をする声が多かった。そして、ジャーナリスト湛山の決断こそが、内閣序列第2位の岸信介を、内閣総理大臣臨時代理に押し上げ、石橋とはまったく政治信条の異なる岸信介を総理大臣として、60年安保に向かい合わせることになった。
ところが、その後の石橋は健康を回復する。総理大臣を辞してからも、1963年の総選挙に落選して政界を引退するまで積極的な政治活動を展開した。
健康を回復した石橋は1960年に入ると、1月に、岸首相訪米に際して送った書簡で、①中国との国交回復のための日米両国の協力、②アジア安定のために日米中ソ印の五カ国会議を開くことを進言した。
また、日米安全保障条約の強行採決に反対し、さまざまなルートを通じて、岸信介首相に退陣を勧告する。6月には、東久邇宮稔彦、片山哲両元首相とともに、岸信介に総理退任を迫っている。
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