もし石橋湛山が首相を長く続けていたならば 日経新聞の名物記者が湛山を振り返る

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それは朝鮮戦争後の冷戦の構図や、日本経済の急回復を抜きには考えられないが、1955年の保守合同によって1956年に首相に上り詰めたにもかかわらず、あっけなくその座を退いた石橋湛山の政治行動があったことも忘れてはならない。

戦中から戦後にかけて、リベラルな自由主義の旗を掲げた湛山とは、180度違う路線を歩んだ戦前の革新官僚に、首相への道を開いたのは、皮肉にも湛山その人だった。

私たち、ジャーナリストにとっては、石橋湛山といえば、大正デモクラシーの時代から日中戦争、そして、軍国主義にいたる時代を、「小日本主義」を掲げ、軍事力の強化と植民地を持つことの経済的な無意味さを問い続け、リベラリズムを貫いた硬骨のジャーナリストである。

『週刊東洋経済新報』(現在の週刊東洋経済)1929年3月16日号は金解禁問題を特集した

東洋経済新報という経済メディアを、社長として自ら率いた湛山は、ジョン・メイナード・ケインズの一般理論を、最も早く、日本人として読み込み、論陣を張った「実践のエコノミスト」としても知られる。

特に、昭和恐慌後の金本位制への復帰をめぐる議論の過程では、金解禁(実質的な金本位制への復帰)をめぐって、旧平価での解禁を考える、井上準之助蔵相に対して、実質的な円安での解禁を主張する、湛山などジャーナリスト・エコノミスト4人組の立場が鋭く対立した。湛山の論拠は、「購買力平価説」にあった。

東洋経済新報の石橋湛山・高橋亀吉、中外商業新報(現・日本経済新聞社)の小汀利得、時事新報の山崎靖純の4人組らは、第一次世界大戦や関東大震災後の日本経済の実力に合わせた新平価解禁を主張した。

首尾一貫したジャーナリストとしての言動

あとから振りかえるならば、4人組の完全勝利だった。ジャーナリストの権力に対する役回りが、これほど見事に体現された例を知らない。そして、もし湛山なかりせば、この論争は成立しなかったと思う。

石橋のリベラリズムは、国家にとっては危険思想だったが、金解禁論争などを通じて、市場経済になじんだ財界人からの積極的な支持を得ていた。

彼の舞台が経済ジャーナリズムであったことが、政治的には湛山の過激な思想を減殺した側面もあった。

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