石橋湛山は「地下鉄の父」をペンの力で支えた 信念を貫き偉業を成し遂げた2人の接点
現在では都市の交通に欠かせない地下鉄。今年は、日本初の地下鉄である東京メトロ銀座線・浅草-上野間が開業してから90年にあたる。
しかし、今では当たり前となっている地下鉄も、計画当初はなかなか理解を得られず、厳しい批判にさらされた。「ほら吹き」との罵声も浴びせられる中でその可能性を信じ、日本初の地下鉄開業にこぎつけたのは、早川徳次(はやかわ・のりつぐ)という山梨県出身の男だ。
そして、この地下鉄計画に当初から支持を示していたのが、当時「東洋経済新報」記者だった石橋湛山だった。
地下鉄の可能性を信じた石橋湛山
「東京市が、一両年中に、有力なる一大交通機関を有し得る望みを生じたことは、東京市民の為めに慶賀せざるを得ない」。石橋は、1919(大正8)年11月29日の東洋経済新報「財界概観」に、早川らの東京軽便地下鉄道に対して鉄道敷設免許が下りたことを受けてこう書いている。
当時、路面電車以外の都市交通として考えられていた交通機関としては、高架鉄道や乗合自動車(バス)などがあった。だが、石橋は「道幅が狭く、路面が悪く、空中に種々なる障碍物がある」東京での自動車交通には肯定的ではなかったようだ。同記事でも「東京市の道路に於て、自動車が到底有力な交通機関たり得ざるは、東京市街自動車の実験に依て証された」と述べ、自動車は東京の都市交通として十分ではないと論じている。
また、高架鉄道についても「それ(高架鉄道)だけで東京市民の交通に十分ならぬは、之亦今迄の実験により明白だ」と述べ、新たな都市交通として地下鉄への期待感を示している。
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