石橋湛山は「地下鉄の父」をペンの力で支えた 信念を貫き偉業を成し遂げた2人の接点
視察のもともとの目的は、鉄道と港湾の調査だった。しかし現地で見た地下鉄に驚かされた早川は、そちらの調査を棚上げにしてまで、もっぱら地下鉄を調査した。1916(大正5)年9月に帰国した早川は、さっそく東京に地下鉄を建設すべく動き出した。
大正時代、すでに東京の陸上交通は限界に達しつつあった。主力の路面電車は慢性的な混雑と輸送力の不足が問題となっており、都市のさらなる発展のためには高速・大量輸送の可能な新しい交通手段が不可欠だった。早川は、その手段として地下鉄の実現を目指したのだ。
東京は地盤が軟弱で地下鉄道の建設には向かない、といった声や、資金面でも実現性を疑問視する声が多い中、早川は地下鉄の実現に向け着々と計画を進めた。街頭に立ち、ポケットの中に入れた豆を使って通行量の調査をし、東京のどこを多くの人が通るかを調べ、浅草から新橋へとルートを定めた。東京は埋め立て地で軟弱と心配された地盤も、実際に湧水量などを調べると問題ないことがわかった。
早川の先見性が生きた銀座線
早川は1917(大正6)年7月、品川から新橋・上野を経て浅草までと、上野から南千住までの「東京軽便地下鉄道」敷設を出願。そして翌々年の11月、東京市が買い取りを申し出た場合はこれを拒否できないとの条件付きで免許が下り、地下鉄の建設が具体化していった。
1920(大正9)年、別会社との合同を経て名称を改めた「東京地下鉄道」は、最初の開業区間を浅草-上野間約2.2キロメートルと定め、1925年に起工。そして2年後の1927(昭和2)年12月30日、記念すべき日本初の地下鉄が開業した。その後路線は延伸を続け、1934年3月には銀座、そして同年6月には新橋まで達した。1939(昭和14)年1月には、現在の東急グループの礎を築いた東京横浜電鉄の五島慶太率いる東京高速鉄道が、渋谷から伸ばしてきた路線を新橋まで開業。同年9月には両社の直通運転が始まり、現在見られる銀座線の形が誕生した。
だが、東京地下鉄道と東京高速鉄道の間には乗り入れを巡る対立があった。両社の関係はこじれ、最終的にはどちらも1941(昭和16)年には戦時体制の中で新たに発足した「帝都高速度交通営団」(営団地下鉄)に経営権を譲渡。早川は地下鉄事業から撤退することとなった。
早川は地下鉄を去ったものの、その先見性はのちにも生きることになった。東京高速鉄道はコストダウンのため駅ホームを3両分しか造らなかったが、東京地下鉄道では将来の乗客増加を見越して6両分のホームを造っていた。このため、戦後に列車の編成両数を増やす際にも、ホーム延伸の必要がなかったのだ。
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