石橋湛山は「地下鉄の父」をペンの力で支えた 信念を貫き偉業を成し遂げた2人の接点

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当時の地下鉄への世間一般の評価から考えると、地下鉄の可能性を見通し、その発展に意義があることを認めたこの文章は意外にも思える。だが石橋は、東京地下軽便鉄道が出願された1917(大正6)年10月の記事でも「地下鉄道は早晩是非共東京市に起らねばならぬ事業であり、而してそれが又東京の人口、商業の発達に伴って相当収支を償うべきものであることは疑いない」と述べており、今後の都市交通の主力たりうるのは地下鉄との見方を示していた。

石橋は、早川による地下鉄建設に免許が下りたことについて「吾輩は無名の一青年早川徳次氏が真面目に此問題を研究し、敢て此地下鉄道の大事業を発起し、茲まで漕ぎ付けて来た労を、東京市民に代って感謝する」と述べ、さらに「併し此事業の真の困難は之からである。吾輩は早川氏の一層の勇猛精進を祈ると共に、市民に向っては、満腔の同情と援助を彼に与えんことを望む」とエールを送っている。

そして、地下鉄に期待する理由として「東京市の交通機関を整備し電車(路面電車)の今日の混雑を防ぐの法は、唯だ地下鉄道の完成あるのみだからである」と結んでいる。石橋は、地下鉄に新たな都市部の交通手段としての合理性と可能性を感じていたのだ。

同級生だった石橋と早川

実は、石橋湛山と早川徳次は旧制甲府中学(山梨県、現在の甲府第一高校)での同級生である。早川は1881(明治14)年、石橋は1884(明治17)年生まれ。1年生から4年生までは同じ学年として過ごした。石橋は5年に進級する際に落第し、通じて2回落第、中学には7年通うことになった。

早川は甲府中学を卒業後、早稲田大学に進学。もともとは政治家志望だったが、次第に鉄道事業を志すようになった。南満州鉄道(満鉄)総裁を務めていた後藤新平に師事し、満鉄に入社するも後藤の退社により退職、鉄道院(国鉄)の現場職員となった。

当時、大学卒業者が鉄道の現場で働くことは珍しいことであった。しかし、早川は鉄道関係の仕事を身につけるべく現場の仕事を志したという。現業部門を退職したのち、郷里の先輩である東武鉄道の根津嘉一郎の知遇を得た早川は、佐野鉄道(現在の東武鉄道佐野線の一部)や高野登山鉄道(現在の南海電鉄高野線の一部)の経営を任せられ、その能力を発揮。そして高野登山鉄道の職を辞したあと、海外の鉄道事情を視察するために1914(大正3)年、英国・ロンドンへ向かった。

この視察が、早川の運命を大きく変えることとなった。そこで見たものこそ、当時すでに相当の路線網に発展していた地下鉄だった。

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