石橋湛山は「地下鉄の父」をペンの力で支えた 信念を貫き偉業を成し遂げた2人の接点
自ら創業した地下鉄を去り、故郷に青年道場を開こうとしていた早川は、その完成を見ることなく1942(昭和17)年に亡くなった。その訃報に接し、石橋は「早川徳次を弔う」と題した記事でこのように書いている。
「早川徳次は、我が国に地下鉄を敷く為めに生れた男であった。而して地下鉄を敷くことに依って一生を終った」「早川徳次の名は、我が国に地下鉄の走る限り残るであろう」「斯くて私は、少時からの彼の友人として、その死を必ずしも悼まない。彼は人間一代として十分為すだけの事を為し遂げた幸福の男だったと思うからである」
「彼は渡欧して、倫敦(ロンドン)其の他の交通機関を視察し、我が東京の交通機関の整備には是非地下鉄が必要だと痛感し、同時に必要は必ず之が実現を可能とすと確信した」。この確信を、早川をよく知る石橋も支持し、大正時代に地下鉄計画を支持する記事を書いた。そして、彼らの確信は現実となった。
早川が没した当時、地下鉄があったのは東京と大阪のみ。だが、石橋は日本初の地下鉄建設に尽くした早川の偉業を「東京に、従って全国の大都市に地下鉄敷設の可能なる事を実証した。之れは我が都市交通史上に新紀元を画したものである」と評価した。その言葉通り、現在では全国の大都市に地下鉄が建設され、都市交通の主力を担っている。
偉業を残した2人のつながり
山梨県出身の鉄道事業家は数多い。阪急の礎を築いた小林一三や、東武の根津嘉一郎、京王の穴水熊雄など、日本の鉄道史に名を残す人物を多く輩出している。そんな中でも、早川は特筆すべき人物である。都市部の主要交通だった路面電車の輸送力がもはや限界に達し、都市内の交通状況が逼迫していたこの日本に「地下鉄道」というイノベーションをもたらしたのだ。そして、石橋は早川の地下鉄計画をペンで支えたといえる。
石橋や早川など、東京で暮らす甲府中学の同級生たちは、「錦会」という会合を開いていた。石橋が地下鉄に期待を示したのは、その合理性と可能性に価値を置いているからであるが、石橋と早川は郷里での学生時代からの友情でも結ばれていた。
東京の交通の現状から地下鉄の可能性を説き、自ら事業のため奔走した早川徳次。そして、都市交通問題の解決に地下鉄をという早川の考えを当初から支持した石橋は、戦前はジャーナリストとして小日本主義を説き、戦後は政治家として福祉国家や世界平和のために活動した。分野は違えども、同郷の2人は合理性を重んじ、信念を貫き、現在に通じる偉業を残したのだ。
(引用部分は「石橋湛山全集」第3巻・第12巻より)
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