もし石橋湛山が首相を長く続けていたならば 日経新聞の名物記者が湛山を振り返る
湛山が岸に総理大臣を譲ったことは、その後に大きな影響を与えて、そのことが現在にまで影響を与えていることがよくわかるだろう。湛山の政治信条に殉じた見事な引き際とは別に、「岸内閣で安保騒動があったことを考えると、鮮やかな辞職は本当によかったのか」との議論が出ることはやむをえない。
政治信条に殉じるのであれば、石橋にとって、岸信介へのバトンタッチはあり得ない選択だった。しかし、そうせざるをえなかったのは、初の総裁公選によって岸が多くの票を取っていたからである。湛山が感じていたそもそもの不満は、盟友であるはずの鳩山が総裁公選の道を選んだことであった。
この総裁公選の事情について、石橋は「湛山座談」において「鳩山(一郎)氏がずるいですね。ずるかったんですよ。後任者を指名することができなかった。指名するなら僕をしなければならない。けれども、僕に対してあまりいい感じを持っておらないわけじゃ」「岸氏にしたいという気持ちが先生に非常に動いていた」と、自らの盟友への批判を、晩年明らかにしている。
しかし、前述したように、ジャーナリスト湛山の信念が、政敵岸の登用に優先したともいえる。
保守政治家石橋湛山の行動原理が、リベラリスト石橋湛山の理想を踏み越えたのである。そして、湛山は「からだが達者で自分が第一線でどんどん指揮が取れればよいけれども、それほど達者でいられるかどうかわからぬですね」と述べている。政治家石橋湛山の健康への不安も、岸信介へのバトンタッチを許容した理由である。
もし湛山が病魔に倒れなかったならば
それにしても、歴史に「もし」は禁物とわかりつつ、「もし湛山が病魔に倒れなかったならば」「湛山がもし、総理の座をすぐに投げ出さなかったなら」と考えないわけにはいかない。
もし湛山が健康で、総理の座を全うしていたなら、国民的な人気を背景にした「社会主義勢力との共存」「中国との早期国交樹立」「日米中ソ印の5カ国の話し合い」という独自の外交観によって、岸による、日米安保路線とは大きく違った道筋を、日本が歩んだことは間違いない。
それ以上に、湛山自身の経済記者40年を振り返ってみれば、リベラルなエコノミストである湛山に、戦後の日本経済の成長期に、自由に経済政策を切り盛りしてもらいたかった、ということを夢想せざるをえない。
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