カタルーニャの未来はスロベニアとは異なる プチデモン州首相はモデルケースとするが

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10月29日にはカタルーニャの独立反対派がスペインの旗を掲げて大規模なデモを行った。世論調査ではカタルーニャ州民の独立賛成派と独立反対派は42~43%で拮抗、真っ二つに割れてしまった(写真:AP/アフロ)

10月27日に独立を宣言したカタルーニャ州を待ち構えていたのは、スペイン政府による州首相や閣僚の解任と州議会の解散など自治権の停止だった。カタルーニャがスペインから独立した共和国となる決議案を州議会が可決した瞬間を、歓喜と熱狂で迎えた独立派の住民の願いは今後もかなえられそうにない。

解任されたカルラス・プチデモン州首相が独立のモデルケースにしたとされるのが、1990年代前半に旧ユーゴスラビア連邦から独立を果たしたスロベニアだ。州首相に担ぎ出される以前にジャーナリストだったプチデモン氏は、現地を訪れ、スロベニアが独立に至った経緯を綿密に取材したとされる。

スロベニアも周辺地域より豊かだった

連邦解体以前のユーゴスラビアは、スロベニア、クロアチア、セルビア、マケドニアなど6つの共和国とコソボなど2つの自治州で構成されていた。その多様性は「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ、1つの国家」と形容された。ユーゴスラビアはソ連型の社会主義体制から距離を置き、冷戦下でも東西両陣営との関係を維持したほか、共和国や少数民族に一定の自治を認めていた。

オーストリアとイタリアに国境を接するスロベニアは、ユーゴスラビア内で最も工業化が進んだ地域で、その地理的近接性もあり、西欧諸国との経済交流がとりわけ盛んだった。当時のスロベニアは、ユーゴスラビア全体のわずか8%弱の人口で、国内総生産(GDP)の約20%を生み出す先進経済地域だった。1980年代にユーゴスラビアを襲った不況もあり、連邦内で経済的に最も成功していたスロベニアでは、連邦政府への巨額の負担金がコソボやマケドニアといった貧しい地域のために使われていることへの不満がくすぶっていた。

カリスマ的な指導者であったヨシップ・ブロズ・チトーの死後、抑圧されていたナショナリズムがユーゴスラビア各地で広がっていった。1980年にセルビアでスロボダン・ミロシェビッチ政権が誕生すると、共和国の自治を制限し、ベオグラード(セルビアの首都も兼ねる)の連邦政府に権力を集中しようとした。スロベニアやクロアチアでは、こうしたセルビアによる覇権復活に反発が強まり、連邦からの分離・独立を求める声が高まっていった。

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