首都圏の鉄道、「廃線跡」の知られざる活用法 「細長い土地」はこうして地域住民に愛された
この広場を起点に、この先、およそ800メートルにわたって、西寒川支線跡が「一之宮緑道」として整備されており、緑道は手前からAブロック(290メートル)、Bブロック(240メートル)、Cブロック(250メートル)という3つのエリアに分かれている。
そして、緑道の終点であり、かつての西寒川駅の跡地は「八角広場」として整備されており、ここには、噴水などのほか、短い距離ではあるが、当時の線路が枕木もそのまま残されている。
また、Bブロックは「一之宮公園」に隣接し、当時の線路が約180メートルにわたって保存されているほか、列車の車輪が車止めとして設置されているなど、かつて鉄道がこの場所を走っていたという「場所の記憶」が残されている。このように線路を残したまま、廃線跡が遊歩道として整備されるという例は、珍しいのではないだろうか。
筆者は、首都圏の廃線跡で遊歩道として整備されている上武鉄道日丹線跡(丹荘―西武化学前間)や、東武熊谷線跡(熊谷―妻沼間)、東急東横線の地下化による地上線跡(東白楽―横浜間)などを歩いてみたが、いずれも、線路は残されているとしても、ほんの数メートル程度だった。
線路を撤去する理由の1つには、子どもやお年寄りが、つまずいて危ないことなどが考えられるが、寒川ではどのような経緯で線路が保存されたのかについて、寒川町役場に取材してみた。
線路が保存された意外な理由
1985年作成の『西寒川・一之宮緑道基本計画』という資料および当時の町の広報誌によれば、西寒川支線跡地は、およそ3億円で寒川町に払い下げられ、廃線から3年後の1987年3月29日に緑道の開園式が行われたという。
それに先立ち、緑道完成時に最も利用頻度の高い層であり、次代を担う世代でもあるとして、町内の小中学生への緑道のイメージ募集が行われた。
この中に、「緑をたくさん入れてほしい」などの意見に加え、「相模線の歴史を現した掲示板」の設置や、「線路や踏切を残す工夫を」といった意見があり、これを踏まえ、緑道の基本方針に「相模(原文ママ)支線の歴史を偲(しの)ばせるような数々の装置」を設置することが盛り込まれた。
緑道整備の基本整備計画には、「線路(レール・枕木)の一部は手こぎトロッコを利用した遊具施設として保存する」「信号機、踏切などの付帯施設は、近年整備される一之宮公園内の鉄道広場(仮称)に再現したい」などと具体的な案が書かれている。
しかし、結局、トロッコや信号機等は撤去され、線路だけが残されたというのが、「一之宮緑道」が現在のような姿になった経緯のようだ。
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