自民党の「派閥」はなぜ求心力を失ったのか 「一強」時代の今、ひもといておきたい歴史
第2は、政党(およびその政治資金団体)以外への企業・団体献金の禁止である。その結果、派閥がつくっていた政治団体は、企業・団体献金を受け取ることができなくなり、大きな打撃を被った。例外的に政治家個人の資金管理団体は、5年間に限って年間50万円以内の企業・団体献金が認められたが、これも1999年の政治資金規正法の改正で禁止された。政党支部を通じて政治家個人が企業・団体献金を受け取る抜け穴もあるが、派閥の資金集めには大きな足かせとなった。
第3は、政治資金の透明化である。政党・政治資金団体以外の政治団体への献金の公開基準が、それまでの年間100万円超から5万円超へと引き下げられた。政治資金パーティについても、同一の者による同一のパーティ券の購入の公開基準が100万円超から20万円超へと変更された。子会社や複数の政治団体を用いるといった抜け穴はあるが、企業・団体はさまざまな理由から名前を公表されることを嫌うし、これを口実に購入額を限定しようとするため、派閥にとって大きな制約となっている。
実際、各派閥の集金力は、1994年の政治改革を境に急激に減少した。1980年代後半には年間20億円を超えることもあった派閥の収入総額は、5億円を超えることがなくなった。もちろん、1991年のバブル崩壊後に平成不況が長期化したことや、1993年の自民党の下野なども、無視しえない要因として作用したはずである。ただ、政治資金制度改革を抜きにして、1990年代半ばの派閥の集金力の低下、その後の低迷を説明することはできない。
派閥の資金力の衰えの背景として、もう1つ注目すべきは、自民党から各派閥への資金配分の消滅である。ほとんど知られていないが、1990年の総選挙対策として、当時の小沢一郎幹事長が実施したことをきっかけに、党から派閥への資金援助が始まり、1992年には総額で約31億円、1993年には約40億円が所属議員数に応じて派閥に渡された。政権からの転落などを受けて1994年には4億5000万円にとどまったが、その後も党から派閥への資金援助が継続した。
1994年の政治改革で政党助成制度が設けられたが、その資金が派閥に回れば、政党本位の政治は有名無実になる。しかし、自民党から各派閥への資金配分は、小泉純一郎内閣の際に大きく削減され、再度の下野を受けて2010年に最終的に廃止された。自民党は派閥経由をやめ、その分を所属議員への直接交付に切り替えたのである。このことは派閥が衰退した結果であるとともに、それを促進する原因にもなった。政治資金の面でも、自民党は派閥連合政党から脱却してきたといえる。
歴史をもう少しひもとけば、1980年代半ばに最盛期を迎えた自民党の派閥政治は、その後、衰退していくことになる。その最大のきっかけとなったのが、1988年に発覚し、世論の強い批判を浴びたリクルート事件であった。
政治改革と派閥数の増加
中選挙区制の下、同士討ちを余儀なくされる自民党の候補者は、党の組織や政策に頼った選挙運動を展開できないので、個人後援会を作り、「党中党」たる派閥に庇護を求め、利益誘導政治に走る。それが金権腐敗の根源である以上、政治家の倫理を問うよりも、中選挙区制を廃止して、小選挙区制を導入しなければならない。リクルート事件を契機として、このような認識が党内外で高まり、小選挙区制の導入を中核とする政治改革の動きが開始された。
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