自民党の「派閥」はなぜ求心力を失ったのか 「一強」時代の今、ひもといておきたい歴史
なかでも自民党幹事長を務めた小沢は、単なる腐敗防止を超えて、政治的リーダーシップの強化という観点から政治改革の必要性を説いた。すなわち、中選挙区制ゆえに、自民党は派閥連合政党にとどまっており、総裁の権力が制約されている。しかも、1980年代に入って総主流派体制が生まれ、派閥間の競争も失われてしまった。したがって、小選挙区制を導入することで、政権交代の可能性を高め、政治的競争性を取り戻すとともに、党首を中心とする執行部の権力を強化し、政党本位の政治を実現しなければならない。
こうした目的を持つ政治改革は、小沢ら羽田派などが自民党から離れ、細川を首相とする非自民連立政権が樹立されることで、1994年に実現した。ほかにも中選挙区制を単記制から連記制に手直しする案や、小選挙区比例代表併用制や連用制などが唱えられたが、最終的に導入されたのは、小選挙区300、比例代表200の小選挙区比例代表並立制であった。比例代表との並立制といっても小選挙区制を中心とするものであり、2000年には比例代表の定数が20削減され、小選挙区制としての性格が一層強められた。
中選挙区制が廃止されたことで、派閥は変化を余儀なくされた。最も目に見えやすい変化は、派閥数の増加である。1970年代末に自民党の派閥の数がほぼ5つに集約されたのは、総裁予備選挙の実施に加え、1つの選挙区から3~5人の議員を選出する中選挙区制と関係していた。中選挙区制の下、自民党の公認候補は最大で5人になるが、互いに競合するため、別々の派閥に所属する。そして、選挙区レベルの5人の候補者の競合は、総裁選挙を媒介として、全国レベルで三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘を領袖とする5大派閥への収斂を生み出したのである。
しかし、1996年に小選挙区比例代表並立制の下で初めて総選挙が実施されて以降、新たな派閥の結成が進んだ。1998年から翌年にかけて、政策科学研究所(旧渡辺派)を離脱した山崎拓グループが近未来政治研究会(近未来研)、宏池会(宮沢派)から分かれた河野洋平グループが大勇会、清和会(三塚派)を脱退した亀井静香グループが旧渡辺派の残留組と合流して志帥会をそれぞれ結成した。これらの派閥は、その後も消滅せず、派閥の数が7に増加した。2000年には「加藤の乱」の結果、宏池会がさらに2つに分裂した。
その後も中選挙区制の廃止に伴う派閥の求心力の減退が進行する。2005年の小泉首相による郵政選挙を契機に無派閥議員が急速に増加した。さらに、2015年には、石破茂を領袖とする水月会が、無派閥議員を集めて結成された。既存の派閥の分裂ではなく、まったく新たな派閥が生まれたのは、1979年に中川一郎率いる自由革新同友会が結成されて以来のことであった。他の派閥との重複加入を認めて派閥を名乗っていない有隣会を除いても、現在、8つの派閥が乱立している。
派閥選挙の後退
派閥数の増加や無派閥議員の増大にみられる派閥の求心力の低下は、中選挙区制から小選挙区制に変わった結果、同士討ちがなくなり、派閥が衆議院議員選挙に関与する度合いを減少させたことを一因としている。中選挙区制の下で、同士討ちを余儀なくされる候補者は、同一選挙区に所属議員がいない派閥に支援を求め、他方、派閥も内部の結束を乱さないため、メンバーがいない選挙区に候補者を擁立し、総裁選挙に向けて勢力を拡張しようと努めた。自民党の衆議院議員選挙は、派閥選挙だったのである。
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