テレビが「東大ブランド」にすがり始めた理由 需要があるのは権威なき時代の権威だからだ
特に、近年になってテレビというメディアが東大を扱うことが増えている事情がもう1つある。それは、若者のテレビ離れが著しく進んでいることだ。統計データでも、10~20代でテレビを見ていない人の割合はどんどん増えていることが明らかになっている。勉強や読書に多くの時間を費やしてきた東大に入るような若者の中では、テレビを見ている割合が平均よりもさらに低くなるだろう、ということは容易に想像できる。
「テレビを見ない若者」の存在は、社会全体から見るとそれほど珍しいものではない。しかし、テレビの中ではその事実はあまり公には語られない。なぜなら、テレビ番組を実際に視聴しているのは「テレビを見ている人」の側であるからだ。テレビを日常的に見る習慣のある人の間では、「テレビを見ない人」はとにかく珍しい人であり、何を考えているのかわからない人であると認識されることになる。
「東大生」という未知との遭遇
いわば、東大生が出る番組というのは、「テレビを見る人」が「テレビを見ない人」を珍獣のように観察して楽しむ番組である、ということになる。若者のテレビ離れが進んでいる昨今、「東大」と「世間」の間の溝はますます深まっている。だからこそ、テレビ業界では東大生の需要が高まっているのだ。
バラエティ番組に出てくる東大生や東大卒の人間は「俗世に降りてきてくれたエリート」という扱いを受ける。期待どおりに賢かったら素直に感心すればいいし、思ったよりも賢くなければ「東大なのにバカだね」と笑えばいい。どちらにしろ、世間とは一線を画す立場にいる存在として、どこか突き放しているようなところがある。それがテレビにおける「東大生」のリアルな立ち位置だ。
これは、外国人、ハーフ、オネエなどの属性を持つ人がタレントとして求められているのと基本的には同じ構造である。「世間とは違った変わり者がいる」という事実を確認するために呼ばれているようなところがあるのだ。東大生の生態を観察するというのは、一種の異文化コミュニケーションであり、未知との遭遇なのだ。「YOUは何しに日本へ?」ならぬ「東大生が何しにテレビへ?」という感じだ。
かくいう私自身が東大生をどう思っているかというと、ほかの大学に在籍した経験がないので比較はできないのだが、個人的な印象では、割と普通の感じの人が多かったように思う。ほとんどの人は育ちが良くてまじめな普通の大学生だった。今の時代、良くも悪くも、東大生しか持っていない際立った個性のようなものはあまり存在しないのではないか。
それでも、世間ではいまだに「東大ブランド」の価値は揺らいでいない。権威なき時代の最後の権威として、テレビではこれからもしばらく東大生が重宝される時代は続くのだろう。
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