織田信長は「部下に嫌われる鬼上司」の典型だ 「ムチャぶり」も酷いし、怒ると怖すぎ…

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Q8. そんな信長についていけない部下もいたのでは?

もちろん、いました。その場合は「恐ろしい報復」を受けます。

1578年10月、信長の家臣だった荒木村重(むらしげ)は突如、敵対する石山本願寺の顕如(けんにょ)に内通し、謀反を起こします。

彼のこもる伊丹城は信長によって包囲されますが、翌年9月、村重は単独で脱出に成功。しかし、城に残された村重の家族36人や、上級家臣の妻子122人が信長に捕われてしまいました。

信長はその全員を処刑すると、さらには下級家臣と妻子合わせて五百数十人を古民家4軒に押し込めて放火し、全員を「焼き殺し」ました。

信長が「鬼上司」だった理由は?

信長の方針は「積極的な版図拡大」だったため、部下は戦場で活躍すれば広大な領土が恩賞として与えられ、「大名並み」という夢のような出世も可能でした。「本人の出自」ではなく「実力と結果のみ」が評価されたため、秀吉のような埋もれた才能が続々と開花したのです。

また信長は「優秀な人材の獲得」にも積極的でした。明智光秀のような他家の家臣だった者でも、優秀と見ると新たなメンバーとして絶えず登用したため、部下同士のあいだでは、いつも「激しい出世争い」が繰り広げられていました。

先述の佐久間信盛のような「結果を出さなければ追放」という容赦ないペナルティも与えられるため、家中にはつねに重圧と緊張が張りつめていたようです。

こうした「過大な褒賞」と「恐怖による統制」こそが織田家の強さの秘密であり、このやり方で信長は天下統一に迫る勢いを最後まで維持しました。

こう考えると、信長が「鬼上司」だった理由は、生まれもった性分に加えて、織田家が強い組織であり続けるために、既定の経営方針にのっとって「あるべきトップの役割を演じた」だけのようにも思われます。

ただし、このような強力なトップありきの組織は、その人がいなくなると統制がとれず分裂します。「本能寺の変」の後、後継者をめぐる激しい抗争が織田家中で繰り広げられたのはこのためです。

織田信長の例からもわかるように、日本史にはビジネスパーソンが「上司として」「部下として」どう振る舞えばいいかなど、処世術のヒントが満載です。織田信長をとっても、「学ぶべき点」もあれば「反省すべき点」もあります。それは豊臣秀吉の人心掌握術や、徳川家康の性格についても同じことです。

ぜひ、日本史を学ぶことで、ビジネスパーソンに必要な「教養」と「処世術のヒント」の両方を、いっきに身につけてください。

山岸 良二 歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師

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やまぎし りょうじ / Ryoji Yamagishi

昭和女子大学講師、東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師、習志野市文化財審議会会長。1951年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了。専門は日本考古学。日本考古学協会全国理事を長年、務める。NHKラジオ「教養日本史・原始編」、NHKテレビ「週刊ブックレビュー」、日本テレビ「世界一受けたい授業」出演や全国での講演等で考古学の啓蒙に努め、近年は地元習志野市に縁の「日本騎兵の父・秋山好古大将」関係の講演も多い。『新版 入門者のための考古学教室』『日本考古学の現在』(共に、同成社)、『日曜日の考古学』(東京堂出版)、『古代史の謎はどこまで解けたのか』(PHP新書)など多数の著書がある。

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