世界の大富豪が唸る「名執事」のサービス哲学 コンビニと出版社の勤務経験が基礎になった
――執事を目指すにはぴったりのキャリアですね(笑)。
新井氏:実は私、スーツを着て大きな会社でバリバリ仕事をする、当時流行っていたヤンエグ(ヤングエグゼクティブ)に漠然とした憧れを持っているくらいで、それ以上の、将来への明確な目標は持っていませんでした。当然、執事という仕事は考えてもいませんでしたし、むしろそうした職業があることすら知りませんでした。
明治大学の政治経済学部へ進みましたが、大学時代ももっぱらアルバイトでした。求人情報誌に載っていた大手出版社の「編集補助」という仕事でしたが、入ってみると実際はクレーム処理の部署でした。付録の不備、書籍の乱丁・落丁への対応がおもな仕事で、電話やお手紙で、読者からのさまざまな苦情をお受けしていました。
「部品が足りない」「落丁があった」というご連絡があれば、午前中に処理をして郵便でお送りしていましたが、特にお急ぎの場合はバイク便を手配して当日中に届けていました。中には、苦情というよりお願いに近いものもあり、「付録の組み立て方が難しくてわからない」という読者のために、付録を昼休みに作って送るということもやっていました。
――どうして、そこまで出来たのでしょうか。
新井氏:お客様からいただく言葉の裏にある「想い」が見えてしまったのです。お小遣いを貯めて本を買ってくれた子どもたち、孫が喜ぶ顔を見たくて本をプレゼントしたお祖父様、お祖母様、子どもの成長を願って買われたご両親。そんな思いをお電話越しに聞いているうちに、心に火がついてしまって。それでコンビニのときと同じように、言われたこと以上にやり過ぎてしまいました。朝から晩まで働いて、帰宅する頃にはクタクタでしたが、不思議なことにそこに疲労感はなく、むしろ幸福感でいっぱいでした。
「人はもしかすると、誰かに喜んでもらいたくて働いているのではないか」と、薄々感じるようになりました。社会人になる前に、ここで誠実に対応することと、その喜びを学べたのは、とても幸運なことだったと思います。
弱肉強食の外資系実力社会でクビ寸前からの復活
新井氏:もともと、仕組みづくりが好きだった私は、コンピュータに興味を持っていたこともあり、ITのシステム開発会社に就職しました。仕事は「ヤンエグ生活」とはほど遠く、先輩社員の雑用ばかりだったのですが、就職氷河期だったこともあり、働けるだけありがたいと、なんとかしがみついていました。
そんな私を見て心配した友人が、転職先を紹介してくれました。そこで私は大きな転機を迎えました。外資系の会社で、「これで私の道はパッと明るくなるぞ」と救われた気持ちになりました。
ところが、入ってみるとヤンエグも真っ青の、想像以上のド派手な世界でした。当時まだ珍しかった、アメリカ型の完全成果主義で、基本給は最低限でしたが、若くても結果さえ出せば、億を超えるボーナスが貰え、売れている先輩、同僚は高級外車を乗り回していました。その一方で、売れない社員はクビになっていくという厳しい世界でした。私も最初の1年半は、鳴かず飛ばずのまったく使い物にならない社員で、いつクビになってもおかしくはない状態でした。