ハルキ小説の「英語版」はこうやって生まれた 「1Q84」「ねじまき鳥クロニクル」訳者が語る
しばらくして、彼のエージェントから翻訳の許可が下りました。そこで私の一番好きな『象の消滅』と『パン屋再襲撃』という短編を翻訳して送ったのです。
本人から突然の電話
あるとき、書斎の電話が鳴りました。受話器を取ると、聞いたこともない――まるで鶏を絞め殺すような――奇妙な音が聞こえてきました。じつはファックスの音だったのですが、当時の私は知る由もなく、すぐに切ってしまったんです。その後、再び電話が鳴りました。今度は男性が出ました。その人は、自分を「村上春樹だ」と紹介し、私の訳文を気に入ったと言ってくれました。そして『パン屋再襲撃』の英訳を雑誌『プレイボーイ』に掲載してもいいか、と。私は、ほんの少しだけ躊躇しました。いささか上品とはいいかねる写真で埋め尽くされた雑誌に自分の文章が載るわけですから。でも、絶大なる発行部数の力にはあらがえません(笑)。
初対面は1991年4月だったと記憶しています。村上さんはボストン・マラソンに出場したのですが、その翌日、ハーバード大学のハワード・ヒベット教授の授業に来てくれました。授業のテーマは『パン屋再襲撃』。私の英訳をもとにディスカッションが行われる予定だったので、私も参加したのです。村上さんと会った最初でした。
――どんな印象をお持ちになりましたか。
愉快な人だという印象を持ちましたね。私は『パン屋再襲撃』のディスカッションのリード役として、「この作品に出てくる海底火山は何の象徴か」という問題提起をしたのですが、学生が答える前に村上さんが言うのです。
「違う! あの火山はただの火山だ。何の象徴でもない!」
私はこう言わなければなりませんでした。
「彼の言うことは聞かないでください。この人は、わかっていない。この火山は間違いなく象徴なんです!」
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