次の二つ目のポイントは1951年のサンフランシスコ講和条約。日本が国際舞台に復帰した条約ですね。日本は千島列島と北緯50度以南の南樺太を放棄したわけですが、大事なことは、この時、日本は国後島、択捉島を放棄しているのです。
同年条約署名後の10月の国会で、吉田茂首相の答弁に引き続き、西村熊雄外務省条約局長が、「千島列島の範囲とは北千島と南千島の両者を含む。その一方で歯舞と色丹は千島に含まれないことはアメリカ外務当局も明言している」という趣旨の答弁をしています。
国後・択捉の放棄後、再び4島返還論になった
この事実を多くの政治家も、マスコミもわかっていないのです(内閣府は北方領土4島が日本固有の領土であり、千島列島の範囲に含まれないとし、米国もこの立場を支持するという説明をしている)。ですから、日本が国際舞台で北方領土4島の議論をするときは、日本は決して有利とはいえず、私は、サンフランシスコ講和条約を歴史の事実として考えないといけないと思います。
しかも、その後外務省は「物語」を作ります。サンフランシスコ講和条約にソ連は署名しませんでした。それを持って、「国後島と択捉島は放棄していない」という、いわば「議論のすり替え」をするのです。
有馬:今のような背景を知ってから、1956年の日ソ共同宣言の話を考えないといけないわけですね。
鈴木:そのとおりです。三つ目のポイントは1956年10月の日ソ共同宣言です。鳩山一郎首相は日ソ共同宣言に署名しますが、歯舞・色丹の2島だけでも平和条約を結ぼうという意見もありました。
しかし、国内世論や閣議の結果、2島では平和条約までは結ばないということを同年の8月に閣議決定します。ところが、この後、こうした決定をしているにもかかわらず、米国が「もし2島で日ソ平和条約を結ぶなら、沖縄を返還しないぞ」と言ってくるわけです。これがいわゆる「ダレス(国務長官)の恫喝」です。冷戦が激しくなってきたために、米国が日本に圧力をかけてきたわけですが、この「上から目線」がソ連の態度を硬化させ、問題を複雑化しました。
そして四つ目のポイントは1960年の日米安保条約の改定時。1956年の日ソ共同宣言の直前に交わされた「松本・グロムイコ書簡」では、「日ソの外交関係再開後も領土問題を含む平和条約交渉を継続する」とされていましたが、共同宣言では最高指導者であるフルシチョフ氏の反対で、「領土問題を含む」という文言が削除されました。
日本側は松本・グロムイコ書簡と共同宣言を一体のものと説明しながら、平和条約の前提としても4島返還を求めてきたわけですが、1960年には「外国の軍隊が駐留する国には領土を渡さない」という新たなグロムイコ外相の書簡が出ます。これによって、1956年の宣言は反故にされ、これ以降、ソ連時代、ソ連から見れば、領土問題は事実上存在しないことになってしまったのです。
その後、1972年の田中首相とブレジネフ書記長の会談でも、田中首相は「戦後の諸問題の中に、北方領土問題は入っているな?」と、ソ連側に迫りましたが、ソ連側は聞くだけで、まったく取り合いませんでした。
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