その動きを受け、1896年の大統領選挙には、労働者の権利と金融の緩和(金本位制だけでなく銀本位制も主張)をかかげたリベラルのジェニングスが立候補する。民主党の予備選で、主流である「ブルボンデモクラッツ」とよばれた現職大統領のクリーブランドを破った。今回で言うなら、バーニー・サンダースが、ヒラリー・クリントンを破って正式候補になったようなものだ。
この民主党の流れに対し、危機感を感じたのが大富豪の共和党のパトロンたちだ。今でいうならコーク(KOCH)兄弟だが、当時の共和党の最大スポンサーは、ロックフェラー、JPモルガン、カーネギーの3人だった。この3人はビジネスでは仲が悪かったとされるが、ギルド型資本主義の危機に直面し、1896年の大統領選挙で協調した(3人で今のおカネで30億円程度の資金提供)。
そして彼らが選んだ大統領候補はオハイオ州のマッキンリーだった。今回でいうならオハイオ知事のケーシックのような候補だろう。激戦の末、マッキンリーが勝利した。ところが4年後の1900年、マッキンリーの再選に挑戦したのがセオドア・ルーズベルトだった。彼はニューヨーク州の知事を辞め、共和党の大統領候補になろうとしたのだ。
大企業と人々との力関係を変えたルーズベルト
進歩的で庶民に人気のあるセオドア・ルーズベルトが、予備選で現職のマッキンリーを破ると困る。それでは民主党のクリーブランドがジェニングスに負けたのと同じだ。そこで前述の3人は、ルーズベルトを副大統領にする「飼い殺し策」を考えた。
思惑通り、1900年マッキンリーは再選され、ルーズベルが副大統領になった。ところが、なんと1901年にマッキンリーが2度目の任期も早々に暗殺されてしまう。犯人はJPモルガンが整理した工場の従業員だった。
そして同年年秋に大統領になったルーズベルトは、JPモルガンの解体に動く。反トラスト法でJPモルガンを訴えたのだ。これを基点にJPモルガンは力を失っていく。そしてルーズベルトが退いた後もこのうねりは続き、人々と大企業の関係が大きく変化した。1911年には、ロックフェラーのスタンダードオイルも最高裁の判断で解体された。
このように、前回シカゴ・カブスが優勝した頃のアメリカは、リンカーン以降、共和党の隆盛と共に発展したギルド型資本主義が、進歩主義に後押しされた共和党のセオドア・ルーズベルトによって終焉を迎えるころだった(この動きは民主党のウイルソン大統領に引き継がれる)。少々長くなったが、ここが、セオドア・ルーズベルトの顔がラシュモア山に刻まれた背景だ。
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