まず、前代未聞の8000万人という多くの人が見たテレビ討論会を取り上げてみよう。候補者のパフォーマンスは頻繁に、世論調査をわずかに左右したが、討論会を通じてそれぞれの候補者が、大統領としてどのように職務を遂行する傾向があるのか、という感触を得ることはほとんどできなかった。
それよりも、今年の討論会では、候補者がロボット的だったとか、しきりに討論している相手を遮ったとか、または相手に向かって叫んだとか、行動の奇抜さが注目された。つまり、本質的な内容はまったく吟味されなかったのである。こんな討論会をもとに有権者が判断する必要はないのだが、それでも有権者は、粗野かつ軽率で、平静さを欠いた「悪い」候補者は、おそらく悪い大統領になるだろうという発見的推論を行った。
ゴアが示した「不適切な討論態度」
もちろん、これは今回のテレビ討論会にかぎったことではない。こうした傾向は、初めて討論会がテレビ放映された1960年のリチャード・ニクソンとジョン・F・ケネディの討論会にも見られた。ニクソンは討論、そして選挙に負けたが、当時の報道によると、それはケネディが冷静で落ち着いているように見えた一方で、ニクソンが汗をかいたからだという。それなりの数の米国人が、ニクソンは「汗かき」だというばかげた発見をし、それを理由に大統領にふさわしくないと考えたのである。
2000年の討論会では、副大統領のアル・ゴアが、テキサス州知事のジョージ・W・ブッシュ(どちらも当時)に対して、不適切に反応した、との認識を生んだ。ゴアの目を回す動きや繰り返しのため息、討論相手をせっつく行動などがおそらく敗因になったといえるだろう。この敗北は、後の大統領候補たちの「不適切な討論態度」の例になってしまった。
本質的なことと関係がない問題が、不釣り合いなほど注目されるというのは新しいことではないが、今回の選挙では本質的な議論が著しく不足していたため、それ以外の要素が目立ってしまった面がある。問題は、米国の民主主義においてテレビ討論会の役割が大きくなっていることだろう。
間違った政治的な中傷や、見当違いの推論もまた、極めて重要な判断材料となった。クリントンは、こうした吟味されていない推論に悩まされた。ベンカジ事件やホワイトウォーター、メール問題などさまざまな疑惑によって、(その疑惑が晴れたにもかかわらず)クリントンには不正直で、狡猾、信用できないというイメージがついてしまった。
一方、大統領選は、エンドレスにテレビ広告を流すための莫大な資金がなければ成功しない、というのもいまや常識となっている。テレビ広告は、発見的情報へのアクセシビリティを高めるという点で、極めて重要だと考えられている。テレビ広告は有権者の注意を引くだけでなく、何かを判断する点においても驚くほど高い影響力を持っているからだ。