あるとき町のカフェで、隣の席の男から、同じように「どこから来たのか?」と聞かれた。それで、「日本の横浜から来た」と答えると、「それはどこだ?」というので、「東京のそば」と言うと、「ソウルまで電車で何時間かかる?」と聞かれ、耳を疑った。聞くと、この男の知り合いがソウルにいるというのだ。
ネットも交通網も発達し、世界が狭くなったとはいえ、まだまだ世界の人々はお互いのことを何にも知らない。だからこそ、これからグローバル世界に出ていく日本人は、日本人としてのアイデンティティを強く持たなければいけない。
国内にいても今後はグローバル化がどんどん進むので、私たちは自分たち自身を語る必要に迫られるだろう。それも英語で。
ところが、私たちは自分たちの歴史をよく知らない。歴史認識と言っているが、第2次世界大戦の歴史認識よりもっと大事なのが、それ以前の日本人としての歴史だ。
「インターの日本史」と「日本の日本史」の違い
日本の学校で学ぶ日本史と、日本にあるインターナショナルスクール(以下インター)で学ぶ日本史を比べてみると、実はインターのほうが優れているのではないかと思う。私の娘は、横浜のセントジョセフにミドルスクール(8年生)まで通い、ハイスクールの4年間をサンモールで過ごした。
この12年間を通して、日本語と日本史を学んだ。もちろん、日本史は英語で学ぶわけだが、そのほうが日本を客観的に見られるので、アイデンティ確立には役立ったと思う。
日本の歴史教育(いや、すべての教育)は暗記中心で、最終目標は受験にパスすることだから、歴史の連続性がおざなりにされる。年号とイベントを記憶していくだけでは、歴史を学んだことにはならない。
私が高校生のときに学んだ教科書は、山川出版社の『高校日本史』『高校世界史』だった。これを徹底的に暗記した。ただ、父が中央公論社の『日本の歴史』全26巻を買いそろえてくれたので、これでストリーとしての日本史を学んだ。いちばん熱心に読んだのは、戦国時代で、武将たちの天下獲りの話に胸が躍った。
しかし、それは歴史物語であっても、「日本とは何か?」「日本人とは何か?」には、最終的に答えてくれなかった。なぜなら、そんなことは自明だからだ。日本人自身が自分とは何かを書く必要はないし、なにより読者はすべて日本人である。つまり、この日本史は日本の中でしか通用しない歴史と言えるのだ。
この連載の1回目に書いたように、ホンモノの日本人としてのアイデンティの確立には、外からの目が必要だ。他者と自分を比べ、他者の視点を取り入れることで、初めて自分が何者かわかる。「ただ単に日本に生まれ、日本の学校に通い、日本で育っただけでは、日本人にはならない」と書いたのは、このことである。
『ジャングル・ブック』で有名な作家ラドヤード・キップリングが、「イングランドしか知らない人に、イングランドの何がわかるか」と言ったのも、このことである。キップリングはインド生まれの英国人だった。
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