どのような山を登るのか、ルートは子供任せ
どのような山に登るか(職業を選択するか)、どのルートを取るか(どの大学へ行くか)は本人任せでした。ルートは目的ではなく、ある意味で手段ですが、ルート選択が親の希望どおりではなかったと親子で落胆したり、子が力を伸ばす努力をやめたりする例も、数多く目にしました。有名大学を出ても失業したり、その逆となったりする例も昔から山ほど見て来た私は、「大学は出たけれど」という結果だけは、絶対に受け入れることはできませんでした。
そのために親ができることは、できるだけ多くの山から選択できる立場に子供を育てることぐらいです。
親が必死に努力している姿勢を、子供に見せる
ただ、わが家の子育ては、皆が皆、ずっと順風満帆だったわけではありません。幸いというか、運がよかったというか、最善のルートを最初から選べなかった子も、最終的には最善のルートを選んだ人と遜色のない登山をすることができました。
世の中は才能や努力だけではどうにもならない、「運」という要素で回っているとよく思いますが、その「運」を呼び込むのも才能のうち、努力している者にのみ「運」はつくと、よく言われます。子は親の鏡ですので、親の努力する習慣は子に伝わります。手前ミソで恐縮ですが、私自身、大したレベルではない事柄に対しても、つねに目の前のことに努力は惜しみませんでした。
それは、大学生になった子に対しても、社会人になった子に対しても同じです。「本人の人生だから」と一見きれい事を言って、無責任に逃げることはしませんでした。
個性にあった家庭教育を
私が子供の受験勉強に関与したのは、中学受験のときだけでした。長女の小5の担任は、エリートコースをわが子にだけ望む母親をよしとしない先生でした。その先生にとっては、わが子を塾へ通わせるという親の行為自体が、不快だったはずです。しかし、学校の先生だけを信じて、「皆が平等」のスローガンで食っていけるものではありません。
子供の教育のためには、親がよく思われないのも仕方がないと決心して、「決して学校教育に不満を持っているわけではありませんが……」と理解を求めて、塾通いを始めました。
上2人の女の子は、放っておいても(塾に通わせているだけで)、いつもトップかそれに近い成績を取り、第1志望校へ余裕で入りました。その習いで次の男の子もそうだろうと信じて疑わず放っておいたのですが、そんなに甘くはありませんでした。
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