広島の通勤電車に「カープ坊や」が現れたワケ 新車は「末期色」から地元が愛する“RedWing"

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旧広島市民球場跡地付近の「勝鯉(しょうり)の森」にあるカープの日本シリーズ優勝記念碑(左)とセ・リーグ優勝記念碑(右)(写真:skipinof / PIXTA)

成績の方は万年Bクラスで創設から1974年までの25年間でAクラスは3位が一度だけであった。しかも1972年からは3年連続最下位であった。翌1975年、チームに変革が必要ということで外国人監督ルーツを採用、そして彼は「燃える色」としてヘルメットを赤にした。するとチームは初優勝。「赤ヘル旋風」という言葉とともに、カープの創設26年目の初優勝は人々に記憶された。

面白いのは、26年目の初優勝のインパクトも、赤ヘル初年のインパクトもあまりに強く、しかもそれらが同時に突如現れたことである。前年までは赤ヘルも強いカープも誰一人知らなかったのに、一瞬にして全国民の知るところとなった。カープは“赤”という強力なブランドを手にしたのである。

その後1991年までの16年間は黄金時代で優勝5回、Bクラスは2回しかなかった。しかし今回の優勝までの25年はまた辛い時期であった。FA制度や逆指名制度など、資金力ある球団が有力選手を集める傾向が加速していたからだ。

そんな中、カープは地道に自ら選んだ選手を育てるという姿勢を貫いた。育った選手がFAで出て行っても歯を食いしばって、ポリシーを変えなかった。その姿勢は球界の良心である。プロ野球が厳しい目で見られる昨今、なお尊敬される存在にいられるならば、それはカープのお陰である。

今回の優勝で、カープの姿勢が間違っていなかったことが証明された。一度は涙ながらに去った黒田が、新井が、お金のためではなく、「カープ愛」ゆえに戻ってきて、優勝したのである。

市民が歴史を語り継ぐ球団

こうしたカープの歴史を語り継ぐ人々がいる。講演会や紙芝居などにより若い世代へ、郷土の誇るべき財産であるカープを伝承している。それらは「カープ昔話」として書籍や漫画として販売もされている。それはカープだけではなく日本の歴史そのものかもしれない。涙なしでは読めない感動的なものである。

このようにカープが地域から親しまれ愛されているのは幾つかの理由が考えられる。自ら選んだ選手を自ら育てるという球団の姿勢や、カープと言えば赤、という強力なブランド、そして歴史を語り継ぐ市民の活動などである。

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