ドーナツにブランド品、女心掴むマックバカ OB・香坂伸治氏に聞く

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入社して2年5カ月で店長になったのは、かなり早いほうだと思います。昇進の決め手は実績を作ること、利益を出すことです。平均してマクドナルドは1店舗で100人くらいアルバイト使っています。メンバーを束ねて、ひとつの目標に突き進んでいくという部活のノウハウが役に立ちました。

藤田田にたんかを切る!

香坂伸治(こうさか・しんじ)
銀蔵社長
1961年生まれ。84年日本マクドナルド株式会社入社。店長、スーパーバイザーを経て、99年から米国駐在員として、店舗運営やオペレーションを統括。2006年にマクドナルドを退職し、クリスピー・クリーム・ドーナツ・ジャパン社長に就任。09年より現職。好きなハンバーガーは「てりやきマックバーガー」

その後、いくつかの店の店長を経て、1992年2月に宮崎県宮崎市にある江平店に店長として赴任しました。この江平店は国道10号線沿いにあるので立地は決して悪くない。でも市街地から少し外れているので、1時間にお客さんが2~3人しか来ない。売り上げの低迷が常態化して“負け癖”がついていました。僕が赴任して数カ月経った頃、全国を巡回中の藤田田さん(日本マクドナルド創業者)が店舗に来て、「この店を閉めることになった。すまんかった」と言ったんです。僕は店長として赴任したばかりなので「ちょっと待ってください。まだまだやればいけます」という話を切々としました。

それが藤田田さんの心に刺さったみたいで、その場で「じゃあ閉店するのはやめよう」と言ってくれた。一緒にいた取り巻きの人たちに「なんでそんなことを言ったんだ」と後で散々言われましたけどね。

――その後、江平店はどうなったのでしょうか

あの藤田さんにたんかを切った手前、やれることは何でもやりました。当時はローカル・ストア・マーケティングといって、店長の責任で地元に合った販促活動をやっていいことになっていました。よく覚えているは、パチンコ屋にハンバーガーを配達するなんてこともやりましたよ。江平店の道路を挟んだ向かい側に大きなパチンコ屋がオープンしたので、すぐ支配人に会いに行って「ハンバーガーを売らせてくれ」と頼んだ。

本当に店の前なので、ドライブスルー用のワイヤレスのマイクで注文をやり取りしました。これが月間100万円ぐらい売る大当たりになりました。全国でも珍しくて、マクドナルドの頭文字をとって「パーラーM」なんて言われていました。

ほかにもドライブスルーを利用した人にタマゴやマヨネーズなど生活必需品を配るプロモーションをやりました。こういう取り組みをしていくうちに売り上げが2倍以上になって“勝ち癖”もついてきました。閉店どころか今でもこの店は残っています。

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