写真が売れるようになってからも、アンドレはキャパの名を使い続けた。当時はアーティスト名をつけることは珍しくなく、ゲルダ・タローも本名ではなかった。当時パリにいた芸術家の岡本太郎の名から取ったと言われている。
たった1年の活動期間
スペイン内戦が始まると、キャパはスペイン語のできるタローと戦場に向かった。タローも写真を撮り、自分の名で雑誌に発表するようになる。カメラは、キャパはライカ、タローは正方形の写真が撮れるローライフレックスを主に使っていた。
タローは女性兵士や戦争孤児、農民、犠牲になった遺体にも臆することなくカメラを向けた。写真からは20代のタローが夢中でシャッターを切っている熱が伝わってくる。
展覧会でタローのパートを企画構成したICP(国際写真センター)のシンシア・ヤングさんは、「スペイン内戦では、キャパ、タロー、デヴィッド・シーモアの3人の写真が国際的なニュース誌に配信されました。
現在の報道は客観性が求められますが、彼らの写真は主観的でした。つまり反フランコ的、反ファシズム的な立場を支持した報道だったのです」と語る。
「タローの作品を見れば、彼女がいかに熟達した写真家だったかがわかる」とヤングさんは言う。けれども、そのタローがカメラを手に活動したのは、1936年8月~37年7月のわずか1年間だった。スペイン内戦の取材中に、戦車にひかれて亡くなってしまったからだ。27歳の誕生日の6日前だった。彼女は戦場を取材中に死亡した初めての女性写真家となった。
それから数十年、タローはキャパの恋人として語られることはあっても、写真家としての業績が顧みられることはほとんどなかった。しかし、タローとキャパの残したフィルムや資料の研究が進み、2007年にニューヨークのICPでタローの初めての個展が開催された。
横浜美術館ではICPで展示された作品を見ることができる。タローの作品がまとめて紹介されるのは、もちろん日本では初めてになる。
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