現代版「スラムダンク流川楓」が伸びたワケ 「NBAに最も近い203㎝」の意外な"過去"
それはどうやら「小さいときに、小さかった」のが、一番の理由のようだ。
「ミニバスケットを始めた小学1年のころは、おまえみたいなチビはスピードで抜かないと話にならないぞ!とハッパをかけた」
そう振り返る父英幸さんは、ハンドリングなど息子の技術が高いことを見抜いていた。
「こんな感じで2メートルになったら……すごいことになる」と想像したこともあった。ただ、そのころの「すごいこと」は、「高校生になったら全国大会に出るかも」といった程度の想像でしかない。
実は、身長190センチの英幸さん、177センチの母、久美さんは、ともに元実業団選手。久美さん(旧姓久保田)に至っては日本代表キャプテン。だが、どんなスポーツでも親子で選手として代表レベルになるのは容易なことではない。大きくなる遺伝子はあっても、技術まで親譲りとはいかないからだ。
母久美さんによると、小学5年生で150センチ、中学1年生で160センチほどだったという。大きいほうではあるが、決して飛び抜けてはいない。
中学3年で180センチを超えた。3年間で20センチ以上伸びたのだ。それゆえに、激しい成長痛に襲われた。膝が曲がらず、なかなか思ったようにプレーできなかった。香川県選抜に選ばれたが、都道府県対抗の大会出場はわずか30秒。有望な中学生が都道府県の枠を超え遠隔地の強豪高校にスカウトされるなか、雄太にはどこからもお呼びはかからなかった。
全国区の高校で一校だけプレーをみてもらいに行ったが、全国制覇の経験もその監督から「時間がかかるな」と入学を断られた。つまりは「無名選手」だった。
ところが、県外の強豪校の指導者で唯一、当時の雄太の可能性を見抜いていた人物がいた。
将来の可能性を見抜いていた人物
関西の有力校のひとつ、大阪学院大学附属高校の高橋渉監督だ。親しい指導者から「香川県にいい選手がいる。A高もB高もいらんと言ったらしいが、将来性はあるぞ」と聞かされた。
話を聞いた翌々週、高橋は大阪から香川に駆け付けた。夏の四国大会で初めてプレーを見た。
「サウスポーでシュートのタッチやフォームが柔らかく、上手いなと。これは、磨けば絶対に光ると思った」
ガリガリに痩せ、当時は180センチ前後だったが、膝から下が長く、手が長い。2メートル級になる要素もてんこ盛りだった。
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