今の20代にとっては、「すべてのカメラが銀塩フィルムカメラだった」ということは歴史上の話であり、もはやリアルタイムの経験ではないだろう。が、銀塩フィルムは緩やかに衰退したわけではない。
1995年に私が精密業界を取材し始めた当時、フィルム業界はまだ成長期だった。街中にはフィルムのパトローネを預かって、DPE(現像をして印画紙へ拡大プリント)を行うお店がたくさんあった。昔ながらの集配モデル(工場で集約して現像・プリントを行う)に対し、店内で現像処理するミニラボを設置した店舗では数十分でプリントを手にすることができたため、スピード重視のDPEチェーンがニュービジネスとして勃興していた。
フィルム全盛期に激変の萌芽
富士写真フイルム(現在の富士フイルム)の「写ルンです」が大ヒットし、各社の「フィルム付きカメラ」が駅の売店で売られていた。「プリント倶楽部」などのインスタント写真もヒットし、まさに銀塩フィルム時代の末期は、一大写真ブームだった。
そしてこの伸び盛りの市場で、フィルム業界では大きな事件が起きていた。コダックによる米通商法スーパー301条提訴だ。
「富士フイルムは日本国内において4大特約店を支配し不当な利益を上げ、その利益を元手に海外でダンピングをしている。日本の国内市場を開放しコダックにも平等な商売をさせろ」という訴えだった。フィルムや印画紙は極めて利益率の高いビジネス。米国政府とコダックは市場開放を迫った。その5年後から急激に市場縮小が始まり、10年後にはほぼ消滅するビジネスには、とても見えなかった。
しかし、フィルムが転機にあることはわかっていた。その象徴が95年3月発売後、大ヒットになったカシオのデジカメ「QV-10」だ。それ以外にも、リコー、NEC、アップルなどがパソコンへのデータ取り込み用にデジカメを発売していた。画素数はじわじわと上がっていく。フィルムが不要になる時代は近づきつつあった。
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