「Fランク大学」の存在意義はどこにあるのか 「社会の物差しからの自由は、日本の希望だ」

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――そのスキルを身につける方法は?

専門的な勉強のツールを通して、社会の仕組みを考える力を養うことが重要だと思います。対象は何でもいい。政治経済でも、人間福祉でも、シェークスピアでも。僕だったら専門は金融市場論だけど、今だったら例えばマイナス金利の意味を考えてみるとか。人の言ったことを聞いて理解するということが本質で、個別の学問はあくまで通り道に過ぎない。

――学問を通してコミュニケーション能力を高める、という方法は迂遠な印象もあります。学生に効果は出ているのでしょうか?

正直なところ、そう簡単ではないでしょうね……。私だって大学や学生の現状がどうなっているのかは、嫌というほど分かっている。でも、理念は現実とずれているからこそ、理念なわけです。本当は「大学で学ぶことに価値がある、考えること自体に価値がある」と言いたい。でもそれが通じるかは現実としては厳しいかもしれません。企業だって採用の時は大学の成績を見ているわけだし、「しっかり大学で勉強をして、いい会社に正社員で入って、給料をきちんともらいなさい」って……。どうしてもそういう言い方で、4年間の学業の意味づけって説明せざるを得ない。

競争による「不安社会」から自由になれ

――そこでしか結びつかないとすると、やはり「大学教育の貧困」を批判されてしまいそうですが。

それは否定できません。ただ、教育はもちろん大切なのですが、学校教育がすべての問題を解決できる万能のツールではない、という面もあると思います。お金は大切ですが、お金だけで人は幸せにならないのと同じ。家庭も然り、友人も然り、いろいろとよってたかって人生ではないですか。人生とは複雑でいい加減なものです。そのいい加減さをどう認めるのか。それが現代社会の課題だと思うんですよね。

――そうした、社会の余白、膨らみが大切だと。

そう。教育、さらに学校制度は何のためにあるのかと問われれば、それは、急速に変化する世の中から切り離して、子ども達を立ち止まらせるためだと思います。偏差値社会は、序列社会です。人を押しのけて、這い上がろうという意識に満ちています。それがいきすぎて、「自分は本当に勝ち残れるのか」という気持ちが蔓延する、不安社会となっている。

色々と言われていることは分かっているけれど、私はBF(ボーダーフリー)の大学こそ、日本の希望だと思っているんですよ。決して絶望して居直っているのではありません。私たちだからこそ、教えられることがあると思うのです。それは、「人の物差しで生きるな」ということ。いわゆる高偏差値の大学の学生では、社会の物差しから自由になれないし、なろうともしません。私たちは、Fランクですから、社会の尺度からは比較的自由。それは、この生きにくい社会での優位性だと、我々は考えてます。

人の尺度で生きるのはやめて、自分の価値観を信じる。大学の教員として、それを支える側に立ちたい。私たちの大学の学生は、のんびりしすぎて心配な面もありますが、優しさに満ちています。その優しさこそ、今の日本社会にとって何よりも大切だと、私は信じているのです。

関田 真也 東洋経済オンライン編集部

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せきた しんや / Shinya Sekita

慶應義塾大学法学部法律学科卒、一橋大学法科大学院修了。2015年より東洋経済オンライン編集部。2018年弁護士登録(東京弁護士会)

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