(中国編・第二話)NPOが中国の巨大メディアと提携
最初に断っておきたいが、私は別に中国の専門家ではないし、言論NPOという非営利組織も、中国やアジアとの友好事業を行うために立ち上げたものではない。
だが、NPOの設立から二年後、私は中国に渡り、日中の対話の新しい民間のチャネルを作りだすために走り回ることになる。2005年4月、北京や上海など中国の主要都市に反日デモや暴動が広がった。そのわずか半年前のことである。
この日中対話は、騒然としたこの05年の夏に北京で実現することとなるが、そこで私が改めて痛感したのも、非営利組織が持つ可能性だった。私はそれまで外交という分野は政府が行うものだと考えていた。アジア経済のダイナミックな発展の中で、日本とは特別の歴史関係を持ち、しかも経済的な台頭を続ける中国の存在は、日本の将来にとっても無視できない存在となっていた。
それにも関わらず、日本と中国の政府間関係は首相の靖国参拝などを巡って悪化し、外交という機能も停滞した。当時はこれを「政冷経熱」と言ったが、この状況を打開するには、それを埋める民間、とりわけビジネスとは別の力が問われているのではないか。私にはそう思えたのである。
アジアの関心は日中関係だった--言論NPO 第4回国際シンポジウム(2005.2.21)
なぜ、私が中国との対話に動き出したのか。きっかけは今から思えば、実に単純なものだった。2004年3月、「アジアの未来」をテーマに私のNPOが主催した国際シンポジウムが経団連会館で行われた。そこに招待した中国のパネラーとの場外での激論がその引き金となった。
シンポジウムで議論の焦点となったのも日中関係である。「領土問題など偶発的な問題で、日本と中国間で戦争が起きることも想定する必要がある」。フイリピンで外相も勤めたドミンゴ・エル・シアゾン駐日大使のシンポジウムでの発言は当時の東南アジアの多くの国の懸念を代弁しているように聞こえた。影響力を増し始めた中国と日本というアジアの二つの大国の対立。その行方に対する不透明感がアジアの国民の間では危機感に変わり始めていた。
その議論に出席したのが、張平という中国の4大新聞の一つで、英字紙チャイナディリーを発行する中国日報社のインターネット会社の当時40歳の総裁(社長)だった。
彼が発行する新聞の英語のインターネット版は、一日のページビューが800万という巨大なアクセスを中国の国内外から得ており、その半数近くがアメリカ人からのアクセスだといわれる。