フジの手本は日経? メディア複合体への道

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フジテレビは1957年、ニッポン放送と文化放送、映画会社3社が共同出資して設立。在京民放キー局としては、テレビ朝日に次ぐ4番目の開局と後発組だ。後に産経新聞がグループに加わったが、各社とも独立色が強いのが特徴だ。

フジサンケイグループとして、テレビ、ラジオ、新聞の連携を模索するようになったのは60年代半ば、鹿内信隆氏が3社社長に同時就任してから。テレビショッピングも「新聞とテレビの融合」策として打ち出された事業だ。一方で、テレビ放送事業では地方局を中心にネットワークづくりを本格化していく。

ところが、70年代に入ってからのフジテレビは視聴率万年4位と、不毛の時代が続く。そこで、80年に編成局長に抜擢されたのが日枝氏だった。「昭和55年の大改革」と当時の社員が振り返るこの年、日枝氏は就任と同時に次々と社内の慣行を変え、視聴率の階段を一気に駆け上がる素地をつくっていった。

教育・啓蒙的な番組の多かったフジテレビはまず「楽しくなければテレビじゃない」のスローガンを掲げ、バラエティ路線へ大転換。「職場が楽しくなければ楽しい番組はつくれない」と社内改革にも着手、局ごとに部屋が分かれていたのを大部屋式にし、社員同士コミュニケーションをとりやすいようにした。番組制作でも、権限をより現場が持てるようにした結果、「オレたちひょうきん族」など“フジらしい”プロデューサーや番組が続々と登場。最大の強みとされる部局を超えた横断的な連帯感も徐々に強くなっていった。

視聴率下位の危機感は日枝氏の背中をさらに押す。「日枝さんはテレビ局は放送も大切だが、コンテンツを軸とした権利ビジネスなど放送以外のことも考えないとダメなんじゃないかと言っていた」と、フジテレビの元経営企画部長で日枝氏とも親しい、エフシージー総合研究所社長の境政郎氏は振り返る。83年には『南極物語』で映画制作に乗り出したほか、映画のビデオ化などコンテンツのマルチユースも開始。その後も「シルク・ドゥ・ソレイユ」の日本公演など、テレビ放送以外の事業を積極的に拡大していく。

実は当時、日枝氏が注目していたのが日本経済新聞だった。圓城寺次郎社長の下、本紙から専門紙へコンテンツのマルチユース化を進めた同社を、フジテレビでも研究していたという。

現場にもメディアミックスの意識が浸透していく。「毎年、新年の社員集会では『テレビは最大で24時間しかないのだから、放送局以外の活動をしよう』といわれていた」と「なるほど! ザ・ワールド」などの番組プロデューサーだった王東順氏は振り返る。「自分も85年くらいからテレビ番組だけで終わっちゃいけないと考えていた」。

実際、王氏は自ら「お台場冒険王」を企画・提案。事業部を巻き込んで、各番組の制作現場へブース出展を頼みに回り、03年に開催にこぎ着けた。

今や、一つのコンテンツをドラマや映画化、舞台、DVD化と展開するだけでなく、こうしたコンテンツを自社媒体を存分に利用してヒット作に育てるのはフジテレビの“お家芸”だ。こうして、80年代には売上高の10%を目標としていたテレビ広告以外の「放送外収入」も、07年3月期には22%に拡大、中期的には30%も視野に入っている。

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