このギャップをどうにか埋められないか。考え続けた日々の先に、道が拓けた。
「私は、ワシントンで途上国に学校を作ることは善であると教えられたけど、バングラデシュでは大学院の仲間でも、仕事の受け皿がありませんでした。その現状を見て、私は小学校の時の経験から学校を作りたいという夢があったけど、働く先を作ることが先決だと思いました。しかも、中国の代替工場ではなくて、付加価値のあるモノを作らないと意味がない。だったら、バングラデシュにしかない素材を見つけようというなかでジュートと出会って、これでバッグを作ろうと閃いたんです」
ジュートはバングラデシュが当時世界の輸出量の90%を占める特産品だが、珈琲豆を輸出する際に使われるような運搬用の麻袋としてしか活用されていなかった。誰も見向きもしないようなこの安い素材で、デザイン性と付加価値の高いバッグを作る。そのバッグを世界に売って、一流のブランドになる。これが、山口の新たな挑戦だった。
こうして、人生の第二幕が明けた。
「端っこの人間」と「外れ値の人たち」
山口はそれまで、こうと決めたら譲らない頑固さと、怖いもの知らずの無鉄砲さ、脇目もふらぬ突進力で壁をぶち破ってきたが、振り返ってみればいつも孤独な戦いだった。いじめへの抵抗も、柔道も、受験も、留学も、ひとりでは成し遂げられなかったかもしれないが、基本的には個人の頑張りで乗り越えた。
それがバングラデシュで初めて、「途上国から世界に通用するブランドをつくる」という、決して自分のためだけではない夢を抱いた。
すると、彼女が経験したこともないほど高く、ぶ厚い壁にぶち当たり、もうダメだと諦めそうになるたびに、手を差し伸べてくれる人が現れるようになった。
実はバッグを作ったこともなかったが、やると決めたら一直線の山口はまず、ブルドーザーのような突進力で職人を探し当て、貯金をはたいていきなり160個のバッグを製作。何の計画性もなく作ったこのバッグが、山崎を惹きつけた。
「とりあえず作っちゃったけどどうしたらいい?という相談があったんですが、当時の僕にプロフェショナルとしてバッグを評価できる力がなかったので、バッグを見ても全然手応えはありませんでした(笑)。でも、24歳の女の子が160個のバッグを作っちゃったことは事実で、おカネもないし、ビジネスプランもないけど、160個のバッグを作れたことのすごさは感じましたね。それですぐ、一緒にやろうと言いました」
バングラデシュでも同じように、ひとりで七転八倒していた山口と共に闘おうという仲間がひとり、ふたりと増えていった。もちろん、きれいごとばかりではなかったが、「端っこの人間」と「外れ値の人たち」が手を組むことで、道を切り拓いてきた。
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