社長を刺せない「社外取締役」は不要だ なぜ日本の経営者は順張りしかできないのか
本来であればもちろん、そうなる前の比較的全体の事業の状態がいいときに、ダメな事業に手をつけるべきである。そのほうがリストラもいい条件でできるし、配置転換で人員をほかの部門に吸収することもできる。ところが全体がダメになってからリストラをしてしまうと、人の行き場所もないし、退職金も払えない。
そんなことは経営者もわかっているのだが、業績がいいときにそれをやろうとすると、「なんでこんなに業績がいいのにやるんだ」と社内で反対される。共同体の論理とはそういうものなのだ。
「社会の公器」に「社内の論理」を持ち込む愚
日本企業がガバナンス不全に陥りがちな理由も、この「経営者が社内の論理に順張りしてしまう」ことにある。このような経営者は「企業は社会の公器である」ということを、いまいちど肝に銘じる必要があるだろう。
東証一部でもマザーズでも、上場した以上、企業というのは「社会の公器」である。であれば、社内の論理より社会の論理を優先させる必要がある。もし「社会の公器」にしたくないなら、上場しなければいい。世の中には、上場しておきながら、「社会の公器」であることを忘れて、社内の論理や創業家の都合を優先させて会社をハンドリングする経営者が多すぎる。仮に株式の半分を持っているオーナーだとしても、もう上場したら自分のものではないのだ。
さらに言えば、これも意外とわかっている人が少ないのだが、たとえ上場していなくても、本当は銀行におカネを借りているというだけで、公器性が十分あるのである。なぜなら、企業が銀行から借りている資金は、その銀行のおカネではないからだ。銀行は媒介しているだけで、企業は一般預金者のおカネを借りているのである。このように社会の公器である企業の経営に、共同体の論理を持ち込むのは筋が違う。
日本の優良企業の経営者は、たいてい共同体のしがらみにがんじがらめになっている。現実問題として、自分を社長に指名してくれた前社長の出身母体を清算するような決断はなかなか下せない。また、社員一人ひとりも似たような状況に置かれている。社長や上司は自分の人事権を持っている権力者である。たとえ思うところがあっても、そういう相手に諫言するのは、毎回クーデターのような大騒ぎになってしまい、極めてしんどいだろう。
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