一方、1956年8月14日の都市交通審議会答申第1号と、1957年6月17日の建設省告示第835号による東京の地下鉄建設計画では、中野~東陽町間を結ぶ地下鉄5号線(現在の東京メトロ東西線に相当)の分岐線として、大手町駅から東武鉄道東上線の下板橋駅を結ぶ路線が盛り込まれた。
この5号分岐線は後に、現在の都営三田線に相当する地下鉄6号線にとって代わり、東京都は地下鉄6号線を下板橋から戸田に延長する計画を発表する。これを受けて埼玉県は、東北本線の混雑緩和策として戸田~大宮間を結ぶ県営鉄道の整備を計画。1960年9月の県議会定例会でも「下板橋大宮間鉄道建設に関する決議」が採択された。
つまり、県営鉄道を整備する動きがあったにも関わらず、国際興業は競合する鉄道の整備を検討していたことになる。埼玉新聞の報道の翌日に埼玉県が調査を行ったのも、県にとっては寝耳に水だったためだろう。なぜ、国際興業はそんなことをしたのか。
本当に造るつもりはなかった?
あくまで推測だが、国際興業は本気で鉄道を建設するつもりはなく、県営鉄道計画への牽制策として鉄道構想を検討したのではないかと思う。仮に県営鉄道が実現すれば、国際興業が運行している路線バスの経営に大きな影響を及ぼすことは必至。そこで、地方鉄道免許の申請準備中という「実績」を作ることで、県営鉄道計画との調整が必要という状況を作り出し、少しでも自社に有利となる条件を引き出そうとしたのではないか。
結局、国際興業の鉄道構想と県営鉄道の計画は実現することなく、東北本線の混雑緩和策は国鉄(現・JR東日本)が建設する通勤新線によって行われることになり、1985年に埼京線として開業している。これにより国際興業バスの利用者は4割近く減ったという。
仮に「国際興業鉄道」が開業していたら、どんな列車が運行されていただろうか。国際興業バスは1959年、白地に濃淡の緑を鋭角的に配した車体塗装を導入しているが、これと似たような塗装の電車が運行されていたかもしれない。車体の側面には、やはり「KKK」の三文字略称が刻まれていただろうか。
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