しかし、これとは逆に、いかなる合理的行為も人間の本性にもとづくのではなく、ただ、そう取り決めただけと主張する哲学者たちも少なくない。こちらに与する哲学も、人間が理性的(合理的)であることを認めないわけではないのですが、それが決定的な要因として作用するのではない、と考えるのです。
そのうち最も分かりやすいのは、ヒュームに由来する「情緒主義」であって、確かにわれわれは約束を守ることも守らないこともあるが、それは「約束は守るべきだ」という「理性の力」によるのではなく、むしろ「守らないと叱られるから」とか「守らないと相手に恨まれるから」とか「守らないと後味が悪いから」といった「情緒(emotion)」によるものにすぎない。同様に、守らない人も「守らないと、叱られるから、相手に恨まれるから、後味が悪いから」という情緒が希薄なだけです。
とすると、「1万円返すと言った約束は守るべきだとはわかっているけれど、翌朝になってみると、どうもそういう気にならない」という先の私の態度は、人間として根本的欠陥であるというより、むしろ自分の浅薄な心理状態(情緒)に忠実だとも言えるのではないでしょうか?
すなわち、「約束は守るべきである」ということがいかに強い拘束力のある道徳を表すとしても、これと具体的行為とのあいだには、いつも「情緒」というものが介在しているのであって、その限り、いつでも破ることができ、しかもそれはごく自然だということです。
自然な心変わりも、社会的には非難される
これは、いかなる道徳も個々の具体的動機を(自然法則のようには)決定できないという意味で「動機外在主義」と呼ぶこともあります。
いいですか? ある男Xが恋人Yに、1週間前に「きみを幸せにするから結婚しよう」と約束したのですが、その後、昔の恋人Zが現れたので、気が変わって結婚したくなくなった……ということはごく自然ですよね。しかし、こんな自然なことが(不思議なことに)社会的には、非難されるのです。そして、それにもかかわらず、Yと結婚するというきわめて不自然なことが期待されるのです。
このすべての背後には、ヨーロッパモダン(近代)の「ロゴス中心主義」が控えていることを指摘して、その幻惑から逃れることを提唱したのがポストモダンであるわけですが、そういう上澄みの議論はともかく、日ごろどんなに非理性的な人でも、理性を軽蔑している人でも、いったん相手を責める段になると、「非合理的なこと」や「一貫していないこと」を理由に責める。
これって、不思議ですね。どうしてでしょうね。ここで、あえて世間の常識に逆らう言い方をしますと、約束を守るべきことは人間としての自然に反する「思想(文化的好み)」にすぎないのです。こうして常識を洗いざらい点検し自他の言動を反省して考えに考えてみること、これが(「机上の空論」ではない)本当の倫理学なのです。
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