婚約破棄した男は「不誠実なダメ人間」なのか 道徳の退廃を歎く人に欠けている重要な視点

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ニーチェは、いわゆる人間が守るべきだとされている道徳はこれ以上のものではない、と強調したのですが、その裏には、「Aがソンするから」悪いのだ、と言えばいいものを、とかく、私が理性を持っているならそんなことをしないはずだ、という論理が控えている。

すなわち、非理性的(とみなされる)態度をとる人は、ただちに社会的落伍者、人間のクズ、とみなしてしまうのです。これって、確かにおかしいですよね。でも、あまりにもそういう「道徳教育」を受け続けていると、おかしさが見えなくなってくる。

例えば、私は飲み屋で「ししゃも」とか「冷奴」と注文した直後に、キャンセルしてほかのものを注文したくなる。本当にすぐ後ならいいのですが、持ってきたあとで「気が変わったから、イカの丸焼きに変えて」とは言えない。なぜか。私の道徳意識が抵抗するからではなく、そうするとお店に迷惑をかける(ソンをさせる)からというだけです。

つまり、私は「そのとき」本当に自分が食べたいものを食べることを躊躇するのは、相手にソンをさせまいと思ってのことだけであり、理性的であるはずの人格に欠損があるからではない。ということは、私は、いつでも、相手の迷惑を考えて、自分の自然的欲求に反して、言葉の一貫性、人格の同一性を保っていることになります。

人間の本性か、単なる取り決めか、それとも…

 こうして、われわれは至るところで自分の自然的欲求とは異なることを要求されるのですが、それが殺人や強姦など社会的に禁じられていることなら比較的わかりやすい。しかし、さらにわれわれは人格の同一性や、自己責任や、約束の履行といったところで、自然な欲求と真っ向からぶつかることを絶えず要求され、これには、気がつきにくい。あまりにも当然だとみなされているからです。

ここで、(ほかのいかなる専門家も議論しないところで)哲学が前面に出てきます。哲学者は問う。約束を履行しないこと、前言を直ちに翻すこと、意見をころころ変えることが、現代社会では歓迎されないこと、いや、きわめて非難されることはわかった。だが、それは人間の本性によるものであろうか? それとも、単なる取り決めであろうか? あるいは、その折衷とした場合、どういうものなのか?

これは、現代英米倫理学で表立って議論されていますが、哲学という領域のコップ中の嵐にすぎないでしょうね。

これを人間の本性にもとづくものとするのは、人間のさまざまな能力のうち理性を特権視する哲学者たちによって主張されていて、カント主義者がその代表であり、人間の行為のうち「合理的行為」をきわめて尊重する立場と言いかえていいでしょう(これは、いわゆる「ロゴス中心主義」の1形態です)。そして、こうした立場は、世間(現代日本)にもそのまま通ずるのではないでしょうか?

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