山本寛斎がデヴィッド・ボウイと出会った日 華麗で、大胆なステージ衣装の数々
ボウイは当時新進気鋭の日本人デザイナーだった山本寛斎さんの服を気に入り、ジギー・スターダストとアラジン・セインの頃、ステージでさかんに着るようになる。内外のメディアでも大きく取り上げられ、ボウイと、山本寛斎さんの衣裳は、音楽とファッションが融合するという新しい時代の到来を感じさせた。
「私の服を着た彼のステージを見たのは、ニューヨーク公演が最初だったんです。ミラーボールが星のような模様を会場に作るなか、天井のほうから彼が降りてきてステージに立った時、舞台袖の両側から黒子が出てきて、服を前後に引き抜きます。すると中から違う服が現れる。それで彼が歌い始めると、ニューヨークのお客さんは総立ちですよ」
「私は初期の頃は、街で着られる着られないとか、売れる売れないとか、まったく考えないで服を作っていました」
服とは「我ここにあり」という主張
「私は今日のインタビューに着てきたような服で、終始暮らしています。つまり服とは、我ここにあり、という主張であるわけです。ボウイもそうでした。その後、私の服に興味を持ってくれた音楽界のショーマンたちも、エルトン・ジョンからレディー・ガガにいたるまで、生き方として“我ここにあり”という人ばかりじゃないですか。だから私の服の生命がそこにあったということなんですよ」
ボウイの遺作となった「★(ブラックスター)」は、しかし、山本寛斎さんにエネルギーをくれたという。
「あのアルバムを聴くと、デイビッドは自分が死ぬことを悟っていたことがよくわかります。メッセージはそれだけではありません。私が個人的にも読み取ったことがあるんです。彼自身は、ひょっとしたら、人生において、表現するだけ表現したと思ったかもしれません。それに対して、寛斎はやりきっていないぞ、もっとやれと。私はボウイの最後の作品を通して、そう言われた気になりました」
「日本元気プロジェクト2015 スーパーエネルギー!!」と題して、2015年は東京都現代美術館を舞台に、アスリートらに服を着せて100メートルのランウェイを走らせるという大胆な着想を形にした山本寛斎さん。2016年は、ボウイに励ましと勇気をもらった気がすると、さらなる創作活動に打ち込むと言う。
(写真:Tsukuru Asada 文:Fumio Ogawa)
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