だが、品鶴線が通る大田区馬込付近は昔ながらの住宅地。大通りはほとんどなく、細い路地に民家が密集していた。在来線に並走するとはいえ、用地買収の交渉に時間がかかれば、開業が東京オリンピックに間に合わない。
そこで、西大井から馬込までの区間は、当時日本初となる「直上高架工法」が採られることになった。現役の貨物線である品鶴線は普段通りの運行を続けながら、その真上に新幹線を通して、用地買収の手間を省くのだ。前回紹介した有楽町と同じ発想だ。
しかし、馬込には広い道路がほとんどない。加えて、新たな工事用地の確保を極力省くための直上高架工法だ。工事車両や資材の搬入もままならず、工事は困難を極めた。
第二京浜国道をまたぐ馬込架道橋の建設工事では、巨大な橋桁を搬入するために第二京浜を通行止めにしたが、周囲に代替道路がなく迂回路は17kmにも及んだという。
こうした”節約精神”のおかげもあって、西大井・馬込周辺には昭和の街並みが残され、それを高い位置から見晴らせるようになった。
富士山と森を横目に多摩川へ
新幹線の車窓に戻ろう。ここは富士山も見えるE席側がよい。高架線に上がると、学校や住宅に混じって、線路の近くにいくつかうっそうとした森も見える。
最初の森は、個人の住宅。この辺りは昔からの名士も数多く住んでいる。次に、線路のすぐ横に見える森は、伊藤博文の公墓所だ。A席側から見える街並みは、かつて北原白秋や室生犀星、村岡花子など多くの文人が暮らした所で、「馬込文士村」と呼ばれている。
建設に苦労した馬込架道橋を過ぎると、E席側に大規模な住宅工事の現場が見える。東京地下鉄(東京メトロ)の社員寮の建設工事だ。
ここには1960年代から営団地下鉄の寮があり、2010年までは懐かしい「団地」が並び馬込の車窓のシンボル的存在だった。
馬込を過ぎると、新幹線は地上に降り、現在は横須賀線などの列車が頻繁に走る品鶴線の右側を並走する。この辺りは、建設当時まだ住宅が少なく、用地買収を避ける必要がなかった。列車はスピードを上げて、都県境である多摩川に向かう。
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