あの時代を戦い抜いた記者・石橋湛山を読む 湛山は、天下国家の記者だった

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「いかなる人間であれ、いかにすれば自分の国を白紙にすぎないもの、自分の欲するままに何をその上に殴り書きしても構わないものと見なすほどまで、傲慢の調子を上げられるのか、私には理解も及ばない。……善き愛国者や真の政治家は、いかにすれば自分の国に現存する素材で最善がなしうるのであろうかを常に考える。保存しようとする性向と、改善するための能力があいまったもの、これが、わたしにとっての政治家の基準である」(佐藤一進『保守のアポリアを超えて』6~7頁)。

この点、湛山は保守である。

保守は、人間の本性が変わることはないという思想において保守なのである。

戦後、湛山は政界入りを目指し、1946年の戦後第1回の総選挙に打って出た。その時、社会党から出馬するよう熱心に誘われたが、自由党から出馬した。

その理由を後に、こう振り返っている。

「社会党には社会主義というイズムがある……ことごとくこのイデオロギーにしばられ、どうにもこうにも動きがとれないのではないかと、私は懸念した」

「これにくらべて自由党には、悪くいえば何もない……ここなら、私の思うとおり、自由にやらせてくれるだろう」(「自由主義の効果」時言、1966年11月12日号)。

湛山の保守は自由のために戦う保守である。人々の自由を実現するために、国をしっかりと経営しなければならない。人々が自由に思考し、自由に選択できてこそ、国も豊かに、躍動的に、発展する。

批評を武器として権力に対峙

そして、何にもまして、湛山は天下国家の記者だった。

湛山は、政治、外交、財政、金融、社会、歴史、思想、人物評伝と、何にでも食らいつく、何でもござれの記者だった。

食らいつく対象は、混沌としたドロドロの現実の土塊(つちくれ)である。そのカオスから、ある秩序だった意味と音律を持つコスモスを造る、すなわち「天下国家」のありようを論じた。

「天下国家」を書くことは、権力を監視することでもある。

それはジャーナリストとしての最大の仕事であるはずである。そして、まさに、ここでの戦いが、湛山を不朽のジャーナリストとしたのである。

湛山の主戦場は、『東洋経済新報』の社説と社論、つまり「批評」だった。

彼は、批評一本で権力監視を行った。

大隈重信も原敬も浜口雄幸も、政友会も民政党も、陸軍も海軍も、日本も英米も、その理念と政策と政治と経済を是々非々で批評した。

しかし、「両大戦期」の時代にジャーナリストとして生きることは試練そのものだった。山東出兵、金解禁、満州事変、国際連盟脱退、ワシントン軍縮協定破棄、ロンドン軍縮協定廃棄、日中戦争、三国同盟、大東亜共栄圏……政治は、一寸先が闇である。国際政治は、一寸先からブラックホールである。

歴史の高みから見下ろすと、湛山といえども、とりわけ自らの課題をもって世界に迫ろうとする場合、時に現実から浮いてしまい、時に現実に振り切られ、一寸手前も見えなくなっていると感じる論考もある。

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