あの時代を戦い抜いた記者・石橋湛山を読む 湛山は、天下国家の記者だった
1930年代に入り、金輸出再禁止による円の切り下げに際して、海外から“ソーシャル・ダンピング”非難を浴びたことに対して、日本が政府も民間も、真っ当な反論一つできない姿を見て、この思いはさらに募った。
1934年、湛山はThe Oriental Economistを刊行した。この雑誌はその後、戦時中を含め20年にわたって日本の財政金融のニュース分析を中心に世界に発信し続けた。
日本を正確に世界に伝えたい、そして日本の課題は世界の課題でもあり、その逆もまた真であると、湛山は信じていた。
湛山は後に、海外から批判されっぱなしの情けない状態が、「日本のファシズム化の速度を速めた」と回顧しているが、政府とメディアが、軍縮問題や経済問題について日本の見解を海外に正確に伝え、その主張を力強く訴えることができないことが、国民に被害者意識を嵩じさせ、国民を排外的にさせかねないことを憂えたのである。
湛山がお手本とした雑誌は、英『エコノミスト』(The Economist)誌だった。それを熟読玩味した。『東洋経済新報』そのものが英エコノミストを一つの模範として創刊されたのである。
ケインズからの書簡
洋書を原書(英語)で読む原書主義も湛山流である。
湛山は、東洋経済新報社に入社してから経済学を独学で勉強したが、その際、アダム・スミス、ジョン・スチュアート・ミル、ウォルター・バジョット、ジョン・メイナード・ケインズなどの著作を原書で読破し、粘着力のある思考法と物事の本質を結晶化させる硬質の批判力を磨いた。
この原書主義は戦前の最大の財政家、高橋是清などとも通ずるが、丸善や教文館に行っては、これはという英文刊行物をせっせと注文した。
湛山の書斎の隣の図書室には、湛山が手に取った洋書がいまもそのまま、ぎっしりと本棚に詰まっている。
それらに混じって、John Maynard Keynes, The General Theory of Employment, Interest and Moneyも並べられている。
その中に、東洋経済新報社がケインズの主著である同書の日本語訳(塩野谷九十九訳『雇傭・利子及び貨幣の一般理論』東洋経済新報社、1941年)を出版したことに対する感謝の意を伝えたケインズの書簡がさしはさまれている。
それでは、湛山の同時代、両大戦期へと旅立つことにしたい。
そして、湛山の論考を手がかりに、その時代の日本の何が問われたのか、何が最大の挑戦だったのか、湛山はそれにどのように応えようとしたのか、を見ていきたい。
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