「また、いつか、勉強してみたいな」朝ドラ「ばけばけ」で注目!明治の教育改革に庶民が激怒した当然のワケ
『日本教育史資料』では、寺子屋の総数は1万5500校とされているが、文献に記載されていない寺子屋も多く確認されている。実際には、全国に5万校以上の寺子屋があったともされている。
先に挙げた明治初期の2万4000校の大部分が、従来の寺子屋と藩校を改造したものだった。江戸時代の教育を打破するどころか、その基盤をフル活用して行われたのが、明治維新における教育改革であった。
庶民には重すぎた学費の負担
明治5年に発せられた学制では、そんな言葉で、6歳以上のすべての男女が「教育ノ初級」である小学校教育を受けることが定められた。明確に「義務教育」の規定が現れるのは、明治19年に発布された小学校令だが、事実上の義務教育がスタートしたことになる。
小学校が尋常小学・女児小学・村落小学・貧人小学・小学私塾・幼稚小学に区分されるなかで、小学校制度の本体を成したのが、尋常小学である。尋常小学は、6歳から9歳までの下等小学と、10歳から13歳までの上等小学の2科で構成され、すべての人が計8年間の教育を受けることになった。
だが、この一大教育改革は、民衆からは歓迎されず、むしろ反発を生んだ。それはなぜか。学校の教科書で「学制は画一的だったから失敗した」と習った人もいるかもしれないが、民衆に浸透しなかったのには、もっと切実な理由がある。
学制には、次のような条文があった。
教育は自ら立つための基本であるため、その費用も政府の地租をあてにしてはいけない――。義務教育でありながらも、授業料、そして、学校の建設や維持費などは教育を受ける主体、つまり、国民の負担としたのである。
そうでなくても、当時は働く人のうち、5人に4人が農業に従事しており、貴重な働き手である子どもが学校に通えば、それだけで家計は苦しくなる。学費の負担などもってのほかだった。


















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