「また、いつか、勉強してみたいな」朝ドラ「ばけばけ」で注目!明治の教育改革に庶民が激怒した当然のワケ
しかし、実際には明治政府の教育改革への反発は大きく、小学校が焼き討ちにされることもあった。
寺子屋を改造して小学校を作っていた
明治政府の教育改革によって、大学・中学・小学の3段階に分け、全国に学校を設置。すべての国民に教育の機会が与えられることとなった。
しかし、明治維新によって旧来の教育が打破されたと考えるのは、誤解である。むしろ、江戸時代に築かれた教育制度なくしては、明治以降の教育整備は成し遂げられなかった。
明治維新の教育改革によって、何が変わったのか。
明治4年に文部省が設置されると、翌年には「学制」が発布された。これは、のちに「学事奨励に関する被仰出書(おおせいだされしょ)」と呼ばれる、日本最初の近代学校制度に関する基本法令である。
学制では、次のような理念が掲げられた。
全国に学校を設置するために、学区制が敷かれた。具体的には、全国を8大学区に分けて、各大学区に大学を1校置いた。のちに7大学区となり、東京・愛知・大阪・広島・長崎・新潟・宮城に大学が置かれることになった。
さらに、各大学区を32中学区に分け、各中学区に中学校1校を設置。そのうえで、210の小学区に分け、各小学区に小学校1校を設置する。それが、明治政府が掲げた政策であった。
学校数でいうと、計256校の中学校と、5万3760校の小学校が設置されることになるが、いかんせん明治政府は財政状況が苦しかった。学制が発表された3年後の時点で、小学校が約2万4000校であり、目標の半分程度にとどまった。
しかも、その大半が、江戸時代の「寺子屋」を引き継いだものである。
寺子屋は、有志が地域の児童に「読み」「書き」「そろばん」を教えるという慈善事業としてスタートし、月謝をとる私塾へと発展していった。先生が1人に対して、人数は数十人程度で、7~13歳くらいまでの子どもが多かったという。地域の初等教育を支えたのが、寺子屋だった。


















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