超大国・隋の誕生によって「急変する国際情勢」の中で、なぜ【日本初の女帝】推古天皇が誕生したのか

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日本初の「女帝」、推古天皇が誕生した背景について考察します(写真:barman/PIXTA)
中国統一を成し遂げた超大国・隋の誕生により朝鮮半島のパワーバランスが一変する中、崇峻天皇の暗殺という非常事態を受けて即位した推古天皇ですが、何よりも政権の安定が求められるタイミングで、あえて初の「女帝」が誕生したのはいったいなぜなのでしょうか。
本稿では、瀧音能之の監修書『飛鳥の古代史 大化の改新と日本国誕生の謎を解く』から一部を抜粋・編集する形で、ヤマト政権における「大王の条件」をつまびらかにしながら、推古天皇が王位に就いた背景について考察します。

古代日本に多くいた「女性首長」たち

明治維新以降、皇室典範が整備されると天皇に即位できるのは、「皇統に属する男系の男子」に限定された。しかし、かつての皇位継承は明文化されていたわけではない。

推古天皇が即位できた背景には、古代日本において多くの女性首長がいたことがある。

例えば、弥生時代後半の2世紀、古代日本で最大勢力だった北部九州の盟主だった伊都(いと)国の首長は女性で、埋葬された平原(ひらばる)1号墓(福岡県糸島市)からは、皇位継承のための三種の神器の1つ・八咫鏡(やたのかがみ)と同型ともいわれる、日本最大の内行花文鏡(ないこうかもんきょう)が出土している。

最も有名なのが卑弥呼だろう。卑弥呼の王都と考えられる纏向(まきむく)遺跡は2世紀末に突如として出現し、その後の初期ヤマト王権に継承された。また卑弥呼の墓と考えられる箸墓(はしはか)古墳は、ヤマト王権の勢力圏に造営された前方後円墳の雛形となった。

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