超大国・隋の誕生によって「急変する国際情勢」の中で、なぜ【日本初の女帝】推古天皇が誕生したのか

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大王家には、蘇我氏をはじめ有力豪族の女性たちが嫁いだが、大后となるのは大王の皇女であり、大王を補佐する役割があったのである。つまり、二王統対立の中で途絶えていた分掌体制が、大王と大后という形で再び復活したのである。

隋の中国統一と「女帝の誕生」

敏達天皇の死後、31代用明天皇の急逝と32代崇峻天皇の暗殺を経て、33代推古天皇が即位することになるわけだが、その背景には大王位を継承すべき有力な皇子がいなかったことが挙げられる。

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592年の崇峻天皇暗殺の時点において、押坂彦人大兄(おしさかのひこひとのおおえ)皇子、竹田皇子、厩戸皇子などがいた。「大兄」は大王位継承資格を持つ有力者を意味する。

古代において、次期後継者を大王が生前に指名する制度は存在せず、大王の死後に群臣(まえつきみ)たちによって推挙される形式だった。ただし、その条件としておおむね30歳以上で政治的経験や実績が求められた。

押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の生年は不明だが、母の年齢から推定すると崇峻天皇暗殺時にはいずれも20代だったと考えられる。厩戸皇子に至ってはまだ10代後半だった。

さらに6世紀後半には、朝鮮半島や中国大陸の国際情勢が大きく変化した。朝鮮半島には北部の高句麗、南東部の新羅 、南西部に百済があった。ヤマト王権は百済と同盟関係にあり、朝鮮半島南端部にあった小国が群集する伽耶(任那)に一定の権益を有していた。

しかし、『日本書紀』では552年の記述を最後に任那に駐在していた「日本府臣」の記述は途絶え、562年に伽耶が新羅に併合されると、ヤマト王権は朝鮮半島における権益を失った。さらに589年に隋が中国統一を成し遂げ、周辺国に急速に勢力を伸ばしていた。

新たな超大国・隋の誕生によって、朝鮮半島のパワーバランスが変化する中で、敏達朝で約20年にわたって大后として政権の中枢を担い、30代後半だった推古天皇が女帝として選ばれたのである。

瀧音 能之 駒澤大学名誉教授

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たきおと よしゆき / Yoshiyuki Takioto

1953年生まれ。駒澤大学名誉教授。著書・監修書に『出雲古代史論攷』(岩田書院)、『図説 出雲の神々と古代日本の謎』(青春出版社)、別冊宝島『日本の古代史 ヤマト王権』『完全図解 日本の古代史』『完全図解 邪馬台国と卑弥呼』、宝島社新書『巨大古墳の古代史 新説の真偽を読み解く』『隠された古代史 記紀から消された古代豪族』、TJ MOOK『古墳で読み解く日本の古代史』『今こそ知りたい日本の古代史』(以上、宝島社)などがある。

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