超大国・隋の誕生によって「急変する国際情勢」の中で、なぜ【日本初の女帝】推古天皇が誕生したのか
ここで注目すべきは、倭王の号の「キミ」と王妻の号の「キミ」が同じ「雞弥(きみ)」の当て字が用いられている点である。
キミとは、男女の首長の中で相対的に地位が高い者を指している。また「キミ」を「王」と表記しなかったことから、日本におけるアメキミは中国や朝鮮半島とは異なる統治体制の首長であることがうかがえる。当時のヤマト王権では、男女が制度的には均等だったことがわかる。
伊都国の女王や卑弥呼に共通するのは、祭祀を司る存在である点だ。また14代仲哀(ちゅうあい)天皇の后・神功(じんぐう)皇后は、実在について疑問視されているものの、実質的に女帝として朝鮮半島への出兵などを行ったことが記紀に記されている。
この神功皇后もまた神懸かりするなど、シャーマン的な側面を持つ。女性首長は、神聖王としての性格を持つ傾向がある。
ところが5世紀に入り、倭の五王と呼ばれる大王の時代など、ヤマト王権が積極的に朝鮮半島に進出した時期には軍事が優先された。対外的に力を誇示するために古墳は巨大化し、祭祀の政治的側面が強くなった。この時代、強権的な男性大王が活躍した時代といえる。
これに対して、蘇我氏や推古天皇によって積極的に進められたのが、仏教の導入である。軍事ではなく、文化力というソフトパワーによって、対外的に日本の存在感を高めようとしたのだ。
日本の伝統的な信仰ではなく仏教という変化はあったものの、ここに女性神聖王の復権があったのではないか。
「大王は男性であること」が既定路線に
『魏志』倭人伝には、卑弥呼には政治を補佐する男弟がいたとある。さらに卑弥呼の後継となった台与は、266年に西晋に朝貢した。『梁書』倭伝や『北史』東夷伝ではその後、再び男王が立てられ、並んで中国から授爵されたとある(「竝受中国爵命」)。
この竝受(並んで受ける)は、男王が台与と同じように授爵されたとするのが通説だが、台与と男王が同時に授爵されたとも読み取れる。
古代日本において女性首長は珍しくない存在ではあるが、正史である『日本書紀』は対外的に日本が文明国であることを示すことを目指したものだった。


















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