超大国・隋の誕生によって「急変する国際情勢」の中で、なぜ【日本初の女帝】推古天皇が誕生したのか
このことから、卑弥呼はヤマト王権の初代大王とする見方もある。さらに卑弥呼の後継者として台与(とよ)が即位したことも『魏志』倭人伝には記されている。
古代日本において、女性が社会グループのリーダーになることは珍しいことではなかった。それでも日本史上で女帝の数は極端に少なく、10代8人しかいない。
このうちの2人は江戸時代の天皇で政治的な例外措置だった。残り6人のうち、4人は飛鳥時代、2人は奈良時代の初期の人物である。つまり、飛鳥時代を中心として女帝の時代があったことになる。
「仏教の導入」と「女性神聖王」の復権
推古天皇は600年に隋に使者を送るが、『隋書』倭国伝には、「倭王は天を兄、日を弟としていて、日が昇ると弟にまかせて政務をやめる」とある。ここから古代日本では、2人の王による二重統治体制があったことがうかがえる。
大阪公立大学大学院教授の岸本直文氏が、前方後円墳のフォーマットが確立した箸墓古墳以降の6基の前方後円墳の墳形を分析したところ、主系統と副系統の2つがあることが判明した。
いわゆる「万世一系」であれば、墳形は次代の大王に引き継がれ、1つであるはずだ。2つの系統があるということは、2つの王統が並立して統治を行っていたことを示しており、岸本氏は、祭祀を行う神聖王と行政・軍事を担当する執政王がいた可能性を指摘している。
『隋書』倭国伝の記述はこの二王統の並立のことを示していると考えられる。さらに隋へ派遣された使者は、倭王について、「姓はアメ、字はタリシヒコ、号はアメキミ(あるいはオホキミ)」「王妻の号はキミ」「太子(大王位継承者)を名付けてワカミタフリとなす」とある。
「タリシヒコ」については、「ヒコ」の名称から厩戸皇子を指すとする説もあるが、「コ」は集団のリーダーを指す言葉で、「ヒ」は「日」あるいは有力王族の自称とされる。
「ヒコ」と「ヒメ」が対として男女を区別するものとなるのは、記紀が編纂された7世紀後半以降のことで、中国の歴史書の記述には当てはまらない。


















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