超大国・隋の誕生によって「急変する国際情勢」の中で、なぜ【日本初の女帝】推古天皇が誕生したのか
ところが、中国の儒教では、女性がリーダーであることを否定的に見るため、『日本書紀』では歴史的に存在した多くの女王が記述から外されたと考えられる。
例えば、14代仲哀天皇の皇后である神功皇后(オキナガタラシヒメ)は『常陸国風土記』では「息長帯比売(おきながたらしひめ)天皇」と記され、大王として扱われている。
こうした古代における男王と女王が並立する政治体制は、6世紀にキサキ(后)制度として発展する。
その背景には、5世紀までの二王統の激しい対立がある。5世紀には、中国の歴史書に5人の倭王が記された倭の五王の時代を迎える。
卑弥呼や台与などに見られるように、古代日本において女性統治者は珍しいことではなかったが、中国の皇帝から将軍号を授爵することで朝鮮半島の権益を強化しようとした5世紀の大王は、国内の軍制化を進め、大王は男性であることが既定路線となっていった。
敏達朝で創始された「キサキ制度」
この倭の五王の時代に、巨大古墳が多く造営された百舌鳥古市(もずふるいち)古墳群が形成される。百舌鳥と古市の2カ所に古墳群が存在するように、ともに16代仁徳天皇の皇子である17代履中(りちゅう)天皇系統と19代允恭(いんぎょう)天皇系統が激しい闘争を繰り広げた。
やがて、二王統の権力争いの中で多くの大王位の後継者候補が命を落としたことで、大王位断絶の危機を迎えたことから、北陸にいたオオド王が26代継体天皇として即位した。そして、その子である29代欽明天皇の時代、すなわち6世紀初頭に二王統の対立はようやく沈静化する。
以降、欽明天皇の王統が大王位を継承した。敏達(30代)、用明(31代)、崇峻(32代)、推古(33代)はいずれも欽明天皇の子である。
二王統の対立が解消し、欽明朝において神聖王の復権がなされる中で、キサキ制度が整えられることになる。キサキ制度における「大后(おおきさき)」は、大王の正式な配偶者を指す。ただし大后は、後世における皇后のように皇位継承者を産むことのみを求められる存在ではなかった。


















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