「うつけ者と言われた信長と常識的な弟」 大河「豊臣兄弟!」織田信長が実弟・信勝を殺害した当然の理由

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(写真:Nori / PIXTA)
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、天下人・豊臣秀吉の弟である豊臣秀長を中心に、戦国時代のど真ん中で天下統一を果たした兄弟の軌跡にスポットライトがあてられています。今回は織田信長が実弟・信勝を殺害した理由を解説します。
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信長ではなく、信勝をもり立てようとする重臣たち

豊臣秀吉は、一説によると天文23年(1554)、織田信長に仕えたとされますが、その2年後、主君・信長を1つの危機が襲います。

信長の弟・織田信勝(信行)の挑発行為が活発化したのです。弘治2年(1556)、信勝方が信長の直轄領・篠木三郷(現在の春日井市)を押領したのでした。

ちなみに『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記)によると、奇抜な格好をして、奇行に及ぶ信長に対し、信勝はちゃんとした服装をして、礼儀にかなった振る舞いをしていたと記しています。

信勝の心中に兄・信長を軽蔑する想いがあったか否かは分かりません。同書には信長ではなく、信勝をもり立てようとする織田重臣(林通勝、その弟・林美作守、柴田勝家)がいたことが記載されています。

そして、林兄弟の画策により、信長・信勝兄弟が不仲になったと書くのです。信勝としては、自分を擁立しようとする織田重臣の姿を見て(我こそが、織田家の惣領に)との想いを深めた可能性があります。

信勝方による直轄領・篠木三郷の押領を受けて、信長は弟と対決する覚悟を深めたと思われます。信長は、那古野城の北方の名塚に砦を築き、そこに佐久間大学を入れて、信勝方に圧力をかけたのです。

川の増水により、名塚砦が孤立した同年8月、信勝方の林美作守や柴田勝家の軍勢は、砦を落とさんとして出兵。信長も清洲より出陣したので、砦の東の稲生にて戦となります。稲生合戦です。

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