「うつけ者と言われた信長と常識的な弟」 大河「豊臣兄弟!」織田信長が実弟・信勝を殺害した当然の理由
永禄元年(1558)3月、信勝は龍泉寺に城を築き、再度、信長に背く姿勢を見せたのです。さらには、岩倉城の織田信賢と手を結び、またもや篠木三郷を押領せんとしたのです。
同郷はよき知行地と『信長公記』にありますので、信勝は喉から手が出るほど、そこが欲しかったのでしょう。
さてその頃、信勝は津々木蔵人という若衆を重用。『信長公記』によると家中の評判の侍たちは皆、津々木につき従うという有様だったとのこと。そればかりか、津々木は信勝の重用をいいことに驕っていたようです。
キーパーソンは柴田勝家
それに我慢ならなかったのが、柴田勝家。勝家は信勝を見限り、信勝に再び謀反の動きがあることを信長に伝達します。信長はついに覚悟を決めます。それ以降、病を装い、外出しなくなった信長。
土田御前と勝家は「兄弟なのだから、お見舞いに行かれるのがいい」と信勝に勧めます。清洲に見舞いに出掛けた信勝を待っていたのは死でした。
清洲城において、信勝は信長の命令を受けた河尻秀隆などにより殺害されてしまうのです。これにより、血生臭い骨肉の争いに終止符が打たれます。信勝謀反の動きを見過ごしてしまえば、打倒されるのは自分(信長)かもしれない。一度、赦免したこともあり、信長は断腸の想いで、実弟を斬る命令を下したものと推察されます。
(主要参考文献一覧)
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(新人物文庫、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)
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