「加害者をかばっている」との批判が来たが…栃木・県立高校で起きた「顔を殴る」「頭部を蹴る」暴行事案、読者の"反応"に筆者が驚いたワケ

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そうした背景のもとで、ことをより複雑にしているのが、拡散の中心地となったデスドルが「被害者サイドにいる」と認識されていることだ。ネット空間のみならず、昨今では極端な二項対立を求め、その構図を消費する傾向にある。

「SNSか、オールドメディアか」「日本人か、外国人か」「既得権益か、規制改革か」などなど。二極化させることにより、各自がスタンスを示しやすくなるため、話題性が強まる。こうした対立軸から「加害者か、被害者か」の2択が生まれた結果として、デスドルを批評することは、これすなわち「被害者への批判だ」と曲解されてしまうのだろう。

「本当に被害者側に付いているのか」という問い

しかし、ここで考えておきたいのは、「デスドルが本当に被害者側に付いているのか」という問いだ。例えば、わざわざ「偏差値F」などと書く必要はあったのか。被害者の顔までモザイクなしで出す必要があったのか。校名を実名にすることによる影響はないのか——。

これは批判ですらなく、ただの論点整理だ。SNSでの告発が必要な行為なのであれば、その手法すべてが未検証でも良いとでも言うのだろうか。

筆者コラムに対しては、「これはもはや暴行や傷害であり、刑事事件の領域だ。『いじめ』と書くことで、事案を矮小化しようとしている」といった批判も出ていた。しかし、これは発信地であるデスドルの「いじめ撲滅委員会」に準拠した表現だ。

これらの要素を並べると、たとえデスドルが純粋に事案解決を目指していたとしても、結果的に「被害者の処罰感情を利用している」と誤解を与えてしまうおそれを、現時点では否定できない。

そうとは思いたくないが、想像させてしまう材料がそろっているのは事実だ。もし仮にこのような構図があるのであれば、被害者は正当に守られていると言えるのだろうか。まさに“被害者の権利”と直結する論点であるが、そこに言及する反応は少ない。

なかには「私刑を批判する前に、現場の問題を考えろ」という批判もあったが、これも前後ではなく、同時並行で考えるものだろう。順番を待っているうちにも、新たな被害者は生まれていく。おのおのが「餅は餅屋」の精神で、得意領域から着手する必要がある。

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